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 地表を覆うやわらかな光り。
 六つの月が影をつくる未来が見えても、変えることはできない。
 だからただ、地に解けゆく声を届ける。











抱えた声届かなさに










 冷たくはない、潮の香を載せた風が流れていく。
 その風にかすかに混ざる血の匂いに、徒かちの青年は目を鋭くした。ベイシアナ、と、彼に名を問えばそう素っ気無く返ってくるだろう。真直ぐに伸ばした髪を二つに分けて束ねた男は、海に添う道なき道を歩いていた。
 小さな大陸だった。緩やかな勾配こうばいを繰り返す大地に、大小さまざまな草木が生えている。木、と言ってもそのほとんどは低木で、草地と潅木帯に覆われた土地だ。
 アルゲニブ大陸に一面に生えた草は、朝露に濡れていた。湿り気を残す地面に閉口しつつも、ベイシアナは血臭のするほうへと向きを変える。
(何故こんなにも薄い……?)
 匂いは、消え入りそうなほどに弱い。たどるように風上に向きを変えると、吹き上げるような下からの風が吹いてきた。下り坂だ。だが露に濡れた地面を下りていくのは、地道でもどかしい。
 前方をちらりとだけ見遣って、ベイシアナは【跳んだ】。
 それは空間を渡る術すべ。言葉も何もなく、その場から忽然と姿を消す。直後、少し離れた何も無い空間に、音もなく姿を現す。
 ベイシアナの嗅覚は、その場所で強い血臭を捉えた。
 大気に触れて固まりかけた、死んだ血の臭い。

 視界に、血を浴びたものが映った。
(……竜、じゃあねえな)
 それは、ヒトの姿をしている。
 ベイシアナは構えて、問う。
「名を」
「アル・トゥライヤ」
 間をおかずに、感情の無い冷めた声がした。その名に躊躇ためらいを覚え、でも構えを解く。ベイシアナはしかし、ただならぬ様子に首を振った。
「アル・トゥライヤ? その血は、一体」
「ゆくぞ」
 だが答えはなく、冷めた声音でトゥライヤは言った。西の方に顔を向ければ、風に乗って、争う音が聞こえてくる。竜が入り乱れて争うその場所へ、行こうと言っているのだ。



 草の大地が続く場所に、黒曜石の輝きを鱗に持つ竜が横たわっている。寝ているのでも、休んでいるのでもない。異質なる竜に攻撃され、倒れているのだ。その翼には穴が穿たれ、二度と飛べないだろうことを見せつけている。
 殺し、殺され、穏やかでない色を瞳に宿して、竜族のなかでは最も大人しいはずの草原竜が、戦っている。
『異質なるものよ!』
『出てゆくが良い!』
『此処は汝らがいるべき場所に非ず!』
 幾つもの咆哮が大地を揺るがし、大気を震わす。
 乱された草の匂いが鼻腔を刺激した。折れた潅木を踏み潰す音が聞こえた。
『誰が許しを得、此処へ参ったのか!』
 黒曜の竜の叫びは、けれど異質なる竜には届かない。
 カーフ島に現れた、六枚の翼を持つ竜がアルゲニブ大陸に次々に飛来する。小柄で、蛇のような細長い体躯を持つ竜。淡い黄土色をしており、その数はしかし多くはない。
 だから竜族のなかで最も数を誇る草原竜は、戦っていられた。自らが傷つき倒れても、倒されても、後に続く同胞はらからがきっと仇を討ってくれるから。
『疾く立ち去れよ!』
『在るべからぬものよ!』
 猛々しいとは言い難い、だが強固な意志を持つ咆哮が、草地を抜けていく。
 声を発することのない、黄土色の竜に当たって砕けていく。
 トゥライヤとベイシアナが、その場所に【跳び】降り立ったとき、一頭の魔竜に向かって、十、いや数十もの草原竜が飛びかかっていくところだった。
「考えたな、各個撃破ときたよ」
「でもあの速度では、無理だ」
 魔竜は躯が小さい分、小回りが効く。それに細長い体躯は風の抵抗をよく流し、動きも素早い。背に負ったように見える六枚の翼は、その実ただの影に過ぎない。空に浮かぶ六つの月、その影が宙に落とされ、あたかも翼のように見えているに過ぎない。だから邪魔にはならない。
 追い詰められたと知った声無き竜が、天へと昇る。影を自身の背に負うゆえに、その下の大地に影は無い。
 数十の草原竜が魔竜を追って、我れ先にと昇っていく。
 陽の眩しさに、一瞬視界が閉ざされて、純白の空に影が見えたとき、その影は直前にまで迫ってきている。
 急降下してきた魔竜だ。
 それは黒曜の竜の間を駆け抜け地を目指す。重たい音が辺りに響いて、昇ろうとした草原竜の何頭かが、傾なだれを打って地へ墜ちた。再び、重たい轟き。
 地に降りた細い竜が、地に墜ちた黒い竜を狙う。
 二つの間隙かんげきは幾らもなく。
 間合いを一瞬で詰めて、魔竜が草原竜を襲う。墜ちた衝撃も酷く立ち上がれない黒曜の竜に、勝機は無い。
 風が舞った。血の臭いと共に。
 ああ、とトゥライヤが呻いたのを、ベイシアナは聞き逃さなかった。
 地上を一掃すると、魔竜は再び上昇する。目標を見失った草原竜らが地上へ引き返そうとする間に、そこにたどりついて集団に飛び込む。群がった草原竜らは互いを傷つけ合うまいと、とっさに距離をとり、吼えた。
『豊かなる地上を血に穢すものよ!』
 一頭の草原竜が、啼きながら飛び出す。その紫の瞳は憤りに燃えている、大人しい種族だというのに。自我を失ったかのように啼き、それは宙を旋回した。
 一頭だけ突き出るように離れた黒い竜を、魔竜が見逃すはずはなかった。
 細い竜が、素晴らしい速さで黒竜に近付く。黒曜の竜は身構えたが、蛇竜の放った霧のような白濁した吐息に、包まれた。
 紫の瞳を持つ竜が、啼く。長く長く、長く啼く。
 しかし咆哮は、次第に尻窄しりすぼまりになり、消えていく。声は途絶え、紫瞳の竜が地に墜ちて振動を響かす。
 宙に取り残された十数の草原竜が、一斉に哭く。
 泣き声は怒りへと変わり、けれどその怒りを飲み込んで、届かない祈りを束ねようとでもするかのように、草原竜らは集まり出した。彼らは集い、攻撃に備えた。離ればなれに戦えばやられてしまうと、悟ったゆえに。
 だが魔竜は賢しかった。敢えてその集団を崩そうとはせず、先程の吐息を、更に規模を深めて吐き出す。折しも吹いた追い風に乗って、毒素を持つ白濁した靄もやが、集った草原竜を襲う。異質なる竜の吐息のなかで、黒い竜達が、啼く。勝機も無く。
 地上にいた別の数十からなる草原竜の集団が、この賢しい勝利者に向かっていく。同胞はらからの仇を討つために。




「どうにかしたいな」
 目を細めて、トゥライヤが漏らす。数ばかり多い、穏和な性格を持つはずの黒き竜達を、助けてやりたいと思った。
 ベイシアナはそんなトゥライヤの呟きに、冷ややかに応じた。
「お前は甘いんだよ、アード。何のために降りてきたのか、忘れたっていうのか?」
「黙れ」
 言うが早いか、トゥライヤは右手のなかに剣を召喚びだし、ベイシアナに向けていた。空より深く海より鮮やかな、青い宝玉のはめこまれた剣は、まだ真新しい光を放っている。
「文句は言わせない」
「おめでたいね、この時代に」
 ベイシアナは、【跳んだ】。空間を伝って渡っていった先に、まだ攻撃を受けていない黒曜の草原竜達がいる。子を抱えた雌の竜、卵の上に被さった雄の竜、そして小柄な、あどけない竜の子ら。
 その先に、異様とも思える光景がある。草の大地に突き刺さる、一振りの剣。
 紫瞳の草原竜の額にある、光さえ奪うほどに黒く美しい宝玉、それと同じものが柄の部分にはめこまれた、鞘のない一振りの剣。
 ベイシアナは竜達の間を【跳んで】駆け抜け、躊躇いもせず柄に手をかけた。
 子を持つ竜達が気付き、啼く。
 けれど構わずに地から引き抜く。刃が陽の光りを照り返し輝く。
 ベイシアナを追って【跳んだ】トゥライヤがその場に到着した。ベイシアナに剣を、三種の秘宝たる青い宝玉のある剣を向ける。
「……」
 無言で、微動だにせずに。
 一方で、竜の剣を奪ったベイシアナが、トゥライヤにそれを突き付け、対峙して吐く。
「どうする? こいつをお前は割れるのか?」
 躊躇いは、無かった。
 トゥライヤは剣を捨てた。宙に放ると、空の谷間に落ちるように、剣が消えてなくなる。
「それでいい」
 ベイシアナは嘲笑い、剣を振るった。
 確信しか、無かった。
 だが金属のかち合う高い音が響いて、ベイシアナの持つ竜の剣が弾き返される。刹那の間に、トゥライヤの右手には、骨組みしかない何かが握られていた。短い棒の両端が矢印のように分かれた、不思議な形をしたものだ。
 ベイシアナがそれに一瞬気を取られた隙に、トゥライヤが跳ぶ。弾かれ飛ばされた竜の剣を左手で素早く拾い、更に跳んで距離をとる。
「驕おごったな、ベイシアナ・パラ・ベラ」
 冷ややかに、トゥライヤが吐く。
 名を呼ばれたベイシアナは、不本意ながら両手を広げ、宙にかざした。トゥライヤが左手の剣を放る。それはベイシアナの頭上で、落ちる前に消えた。





 後から後から現れてきていた魔竜は、思ったよりも増えてはいなかった。
 それで全部なのかもしれなかった。
 生草の匂いが、血の生臭い匂いにかき消されてゆく大地に、二人が降り立つ。紫の瞳を持つ黒曜の草原竜は、よく戦っていた。まだ、幾つもの集団を保っていた。
 一つの死骸の脇に立ち、遠く地上で空中で行われている侵す竜と侵された竜との争いを、見遣る。
 すでに血の匂いを消したトゥライヤは、静かに、告げた。
「パラ、召喚だ」
 名を呼ばれ、ベイシアナが両腕を胸の前に差し出す。
|穏やかなる草原の一振りよ|
 漆黒の宝玉のはめ込まれた、重たい剣がベイシアナの両腕のなかに現れる。トゥライヤはそれを厳かに受け取ると、構えた。
 戦いの場に続く大地に、黒竜の剣を突き立てる。
 刹那、訪れた静寂。
 血が沸き上がるような錯覚さえ覚え、目を瞑る。
 一面の草地と潅木帯から光が湧き出で、地表を白く満たしていく。地上で、空中で争っていた竜達のうち、細い体躯を持つものが数頭、光に目をやられて動きが鈍り、緩やかに落ちる。
 けれどそれだけだった。
 やがて光は失われ、元の喧噪が地表を覆い始めた。
「目くらましにしか、ならないのか」
 失望の声は、ベイシアナの耳にしか届かなかった。





 小さな大陸、アルゲニブの西側の端に、それはある。
 通常よりひと回り小さく、鱗に長い切り傷の残る、草原竜の死骸。閉じられた瞳は、かつてくすんだ紫の光を宿していた。純粋ならざる草原竜、隣の大陸に住む砂塵竜の血をも引く竜の死に絶えた体躯。切り傷のある部分だけは白く変色しているものの、他はほぼ綺麗に原形を留めている。
 アル・トゥライヤは、1年ぶりにその場所を訪れていた。
 予想に反して、ほぼ完全な形で残っていた竜の死骸に、驚きを隠せずにいた。
「竜鱗に守られた肉体って、腐らないんだな」
「ただ風雨で朽ちて……消えていくだけだからな」
 ベイシアナが知ったふうに言う。
 トゥライヤが切り傷に触れると、躯を構成していた何かがぽろぽろと崩れ落ちた。死んだ竜の横たわる大地に染みた血の痕に、その何かが降り掛かる。
「これは、俺が殺した」
 しゃがみこみ、血痕に触れながら「だが、」と続ける。
「まだ砂塵竜に――こいつのもう一方ひとかたの同胞はらからに、届かないというのか」
 命を賭して救いを求めた、声なき声は。
 トゥライヤは立ち上がると、右腕を軽く振った。その手のなかに、二重の環を持つ錫杖が現れる。錫杖を、自らの胸に当て、左手を竜の鱗に触れさせ、唱えた。
【流れゆきたるもの疾く過ぎよかし】
 まるで時間を速めたかのように、竜の躯が朽ちていった。鱗が、肉が、骨が、粉のようになって、草の大地に積もり積もってゆく。内側に溜まっていた凝固した血が地表に落ち、黒っぽい粉を舞わせた。粉に融け、血が地面に吸われていく。





 砂の大地で、縄張り意識の強い竜が鎌首をもたげた。
 何かが、おかしい。
 長き命を持つはずの同胞の血が、その命を全うする前に消えてゆく。
 ひとつの喪失。
 奪われた、何か。
 隠れ砂漠に棲まう砂塵竜が羽ばたき、灰色の砂が風に舞った。





 完全に消えた竜の影を、それでもまだ追うように、その残骸を見続ける。何か光のようなものが一瞬だけ辺りを包んだが、すぐに霧散した。
「時間が、足りなかったんだな」
 ベイシアナの呟きに、説明を促すようにトゥライヤが顔を向ける。
「普通、こいつらは数十、あるいは百数十年単位で朽ちていく。そうして魂が抜け落ち、竜王となる。朽ちるとき、時間をかければかけるほど、立派なものになる」
「どこで、知った」
「伊達にここを歩いちゃいねえよ。ずっと見てるんだ、俺は」
 ベイシアナが目を細めた。数十、百数十年単位で、待った。だが六翼の竜が現れるタイミングを、ついに見抜けなかった自分が愚かしい。
 そのベイシアナの思考を呼んだかのように、トゥライヤが言った。
「パラ、何のために降りてきたのか、忘れたいと思ったことはあるか?」
「お前こそ」
 はぐらかされた答えを、多分二人ともわかっていた。
 始まったのだ、この長い長い惨事は。
 東の方から、風に乗って、争う音が絶え絶えに聞こえてくる。竜が入り乱れて争うその場所へ、行かなければ。










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