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 血潮がまぶしい。
 六つの月が影をつくる未来が見えても、そこに手をのばす術を知らない。
 だからただ、祈りを捧げた。











空渡す祈り続く限り










 小さな大陸がある。すぐ脇を通っていく海流は冷たかったが、地表は寒くなく、また暑すぎることもなかった。表面を大小さまざまな草木ばかりが覆いつくすその大陸に、一人の男が降り立った。少し癖のある黒髪を手で撫でつけながら、男はゆっくり歩いていく。年は見た目にはわからない。だが、まだ青年期を越えてはいないようだった。
 ピュリと言う。彼は名を問われればそう答えただろう。不意に立ち止まると、ピュリは地面にひざまずいた。湿った草々が、さきほどまで雨の降っていたことを彼に物語る。
「だから何も見当たらなかったんだ」
 湿った草の上に横たわるのは、気持ちのいいものではない。ここアルゲニブ大陸にも竜が棲息するはずなのに、ピュリはまだ彼らを一頭も見ていない。竜とて考えることは同じ、というところなのだろう。
 ピュリは草地に触れた手を軸に、立ち上がろうとした。
 不意に、視界が揺れた。そのまま世界が反転する。
(めまい、か……)
 一瞬息がつまり、否、と思い直す。
 気付いたときには背にぐっしょりとした草露の感覚があり、見上げた空にはヒトの顔があった。見慣れたようで見知らぬ顔があった。
 ピュリを仰向けに倒し、馬乗りになって抜き身の剣を構えた者が、無言でピュリを威圧する。逆光になって顔の表情は見えない。陽に透ける銀色の髪の輝きは、竜種のなかでも最も力を持つ者達の瞳を思わせた。
 ピュリの首筋に当てられた剣の、柄の辺りに暗褐色の宝玉がはめ込められているのが見て取れた。
「誰だ?」
 身じろぎひとつせずに、何の恐れも抱かずに、ピュリが問う。
「アル・トゥライヤ」
 剣を持つ者がためらいもせずに答えた。
 その答えにピュリは、わずかにだけ戸惑って。それから落ち着いた声で言った。
「そこを退いてくれよ、アル・トゥライヤ」
 彼が自分に危害を加えるつもりのないことを、確信した声音で。
 トゥライヤはその言葉に素直に従う素振りを見せ、立ち上がった。ピュリが立つのを待ち構えたように、手にしていた剣を差し出す。
「これを」
「預かれって?」
 トゥライヤは無言で答えた。



 地を伝ってくる振動を感じて、二人同時に目をやった。黒っぽい鱗を持つ竜がやってくるところだった。
(草原竜だ。)
 風の悪戯で消えそうな声で、ピュリがトゥライヤにささやいた。
 黒曜石の輝きを鱗に持つ草原竜が一頭、近付いてくると二人を遠目に眺め回しながら吼えた。
『何ものか』
 竜の言葉を理解して、トゥライヤが同じような声を出す。
『アル・トゥライヤ。竜じゃない』
『告げる名など持ち合わせず。我らはただ草原竜とのみ呼ばれている』
 竜が怪訝そうに吼える。その瞳には、疑惑の色がうかがえた。
 トゥライヤは、違和感を覚えて竜の瞳に視線を注いだ。通常草原竜は、赤っぽい、濃い紫の瞳を持つはずであるのに、相対する竜の瞳はややくぐもった紫に見える。
 口をついて声が出た。
「お前の目は、何故そんなにくすんでいる?」
 竜がはっとするのがわかった。
 と同時に、相手が身構えるのもわかった。
『汝ら、大地竜の宝玉の色を知る者だな?』
 怒りにも似た熱い感情が、竜の双眸に溢れるのがわかる。
「パラ、召喚だ」
|猛き大地の一振りよ|
 トゥライヤの声に素早く反応し、ピュリがその手に先ほどの、暗褐色の宝玉のはまった剣を召喚する。それは大地竜と呼ばれ、自らを地久竜と称する竜族の額にある宝玉と、同じ輝きを宿している。
 トゥライヤは両手で、剣を逆手に握って地に軽く突き立てた。
『私はこれの使い方を知っている』
 静かにそう告げるだけで、竜の瞳の色がほんの少し変わるのが見える。しかし竜は、大きく首を振って息を吸い込み、長く吼えた。地を轟かすような響きでこそなかったものの。
 二度、三度、紫灰色の瞳を持つ竜は吼えた。その声に呼応するように、遠くからも咆哮が聞こえてきた。
「仲間を呼んでるぞ」
 ピュリはトゥライヤのほうを見て言った。
 トゥライヤは軽い舌打ちとともに、片手に持ち替えた剣を横手の宙へと放る。ピュリが両手を広げ何事かをつぶやくと、剣はそのまま空に溶け込んだようにして消えた。空には飛来する別の草原竜の姿が見える。
(はったりじゃあ、駄目か)
 声に出さずに言う。
 それを知ってか知らずか、ピュリは竜のほうに向き直って、声だけは落ち着いたまま、身構えて言う。
「何故あれを使わないんだ、トゥライヤ?」
あれは竜には効かない」
「厄介な道具だね」
 紫灰色の瞳を持つ竜が姿勢を低く持ち、翼を広げようとするのが見える。羽ばたきの余波が二人を襲う。何度目かの咆哮、少しの熱が混ざった吐息が押し寄せる。
「一番大人しい竜族でさえ、この気性の荒さだよ!」
 ピュリが右手を無造作に差し出した。その動作の意味に気付いて、トゥライヤが叫ぶ。
「やめろパラ!」
 トゥライヤが地を蹴るほうが、ピュリが右手を握りしめるよりほんの僅かに、速かった。
 地を揺るがすほどの爆風と、しばしの雨。密度の高い空気の固まりが海面を割るほどに叩き、その反動で宙へ舞った海水が地に降ったのだった。
 紫灰色の瞳を持つ竜がもう一度吼えようと息を吸ったとき、そこにいたはずの異質な生き物が二匹、いなくなっていることに気付いた。短い雨が止んだ後、竜は静かに吼えた。地を這うように長く、危険の去ったことを告げる音を。



 あの蒼穹の裏側に、名をくれた女神らが御座すのだと、思うと。



 アルゲニブ大陸のすぐ側に、島が二つ浮かんでいる。大きいほうの島では、目立つような特徴は無く、岩の大地の上にわずかな草地が広がっているばかり。小さいほうの島では、北西には岩石から成る山がそびえ、切り立った崖が海に挑むように島の縁にぐるりと並んでいた。たったひとつ海へ開かれた道は、南東にある小さな入り江だけだった。硬い山に降った雨は岩肌を伝って地へ染みこみ、その水がやがて溜まって川となって、平野を下り唯一の入り江に注ぎ込んでいる。
 その景観を臨める場所に、二人はいた。トゥライヤはとっさの判断で、ピュリを連れてここに【跳んだ】のだった。地上から吹き上げてくる風が、時折二人の髪を揺らした。
「シェダルか」
 ピュリが眼下に目をやって言った。
 入り江の先、島の南東には大海が広がっており、碧と蒼の境がくっきりと見えた。そのまま空を見渡せば、輝きが六つ。
「月が六つとも出ている」
 特に何を想うでもなく、トゥライヤはそう述べた。
「珍しいこともあるな」
 不思議そうにピュリが応じる。
「いや、これって……」
 その途端、トゥライヤの脳裏をよぎったのはかつて見たことのある映像だった。

 ――そこに手をのばす術を知らない

 身体中を突き抜ける、沸き上がるような高揚感。
 身動きができない。
 自分の意識の支配下に、何か異質なものが現れる、強大な拒絶感。
 我に帰ったトゥライヤが見たのは、空を舞う竜だった。アルゲニブ大陸のそばにある、大きいほうの島カーフの上空を飛んでいる。長細くしなやかな、世界七種のどの竜族とも異なる、蛇のような体躯。薄い黄土色のその身に六枚の羽根をまとっている。月の影を六枚、羽根のように背負っている。
 甲高い音が聞こえた。異質な竜の叫び声が。
 低く、うなるような、大気を震わす咆哮も聞こえてくる。
 次々と現れていく六翼の竜の向こうに、アルゲニブ大陸の方向に、幾つかの小さな影が現れだした。それは異質な竜のなかに混ざっていって。
「草原竜が、あんなに……」
 トゥライヤはつぶやいた。
「加勢しないのか?」
 視線を合わせずにピュリが問う。
「あれは竜には効かないから」
「アル・トゥライヤ、ときに――」
 上昇気流が抜けていく。風の勢いに飛ばされそうになりながら、トゥライヤは一瞬だけピュリのほうを見やり、再び視線を空のほうに戻した。六翼の竜が増えていく。その大半はずっと先のほうへと飛び立っていくばかり。
「それよりも、何故あの異質な竜どもはシェダルへは来ないんだろ」
「知るかよ、僕は竜の生態には詳しくないからね」
 風のせいで乱れた癖毛を押さえ付けながら、ピュリは念を押すような口調で告げた。
「俺だって」
 トゥライヤが言い返そうとピュリのほうを振り返った直後、後ろのほうで轟音が響いた。
「なんだ?」
「アルゲニブの方向だよ、トゥライヤ」
「行くぞ」
 どこへとは聞かずに、ピュリはトゥライヤの後に付いて【跳んだ】。行く先はアルゲニブ大陸。二人はその場で足踏みをするかのように、軽やかに、シェダル島で最も大きな岩山サドルから、一気にアルゲニブ大陸の草原竜らのいる場所へと着地した。
 長細い体躯を持つ竜は、後から後から飛来してきていた。黒曜の草原竜はその数の多さを誇るとはいえ、圧されているように見える。竜達が互いを攻撃し合っている場所からは少し離れた場所に立ち、トゥライヤは深く息を吸う。
「どうにかしたいな」
 ピュリは何も言わずに肩をすくめた。手を伸ばし、握りしめる真似事をする。それにはトゥライヤは感心を示さなかった。ピュリは竜のいるほうを見、それからおもむろに言った。
「見ろよトゥライヤ、あの竜」
 それは他よりもやや薄い色をした、輝きのあまりない鱗を持つ草原竜だった。黒と黄土色とが入り乱れるなかにあって、その灰色がかった鱗は際立って見える。体つきも、他の草原竜と比べて一回り小さい。
「子供か?」
「いや、違うな」
 その竜が、先程出会った紫灰色の瞳を持つ竜だと気付いて、トゥライヤは目を細めた。何か嫌なことがあったときの彼の癖だ。
「……爆ぜる水の飛沫の音を」
 トゥライヤが低くつぶやく。その声は風に乗って、地を滑っていく。周囲の大気を巻き込み、滝のような激しい音を立てながら、混戦する竜達の間を通り過ぎていく。
『何ものか』
 風の後を、知った咆哮が轟く。
 紫灰色の瞳を持つ竜が、二人の存在に気付いたように翼を羽ばたかせ、舞い上がった。それを追うように二頭の黄土色の竜が飛び立つ。別の草原竜が気付いて、長い竜に襲い掛かる。その間に紫灰色の瞳の竜が、二人の側へと舞い降りる。
『誰であれ、我ら以外にこの地に在ること許さぬぞ』
 吼えた声は、先ほどよりも荒々しく。
 その瞳の奥にある悲しみに、ああ、とトゥライヤはうめいた。
「お前、純粋な草原竜じゃないんだな」
 言葉は竜のものではなかったが、灰色ずんだ鱗を持つ竜はトゥライヤの言葉を理解した。それが常に気にしてきた事実であったことも、彼が決して同情心からそう言ったのではないと気付いたことも、差し引いたとしても。
『そうだとも、我が身には砂塵竜の血も流れている。それゆえに草原竜の非力さが恨めしい』
 距離を抜きにすれば隣に位置する大陸に、砂塵竜達は棲んでいる。灰色の鱗を持つ体躯は小さく、力はそれほど強くはなかったが、竜種最弱の草原竜より弱いことは無い。それに気性が荒く、好戦的な種族でもある。
「強き血族を知るゆえの、弱き身の嘆きなのか」
(草原竜にしては、やけに気性が荒いと思ったんだ)
 ピュリが珍しく同情の眼差しを竜に向ける。しかしそれは、紫灰色の輝きを宿す竜が望むものではない。竜はトゥライヤの深い水色の瞳を真直ぐに見つめ、言った。それは信頼からでも、安易な仲間意識からでもなかった。
『私を殺せ』
 これが最後とばかりに、竜は猛々しく吼えた。
『我が身を滅ぼせ。この身に流れる血が途絶えたならば、異質なる者どもの存在を同胞はらからたる砂塵竜らが知るだろう』
『声じゃ、届かないのか』
『私は純粋な砂塵竜ではないからな』
 そう言われて、トゥライヤはためらいを見せなかった。
「パラ、召喚だ」
|猛き大地の一振りよ|
 暗褐色の宝玉のはめ込められた、重たい剣がピュリの両腕のなかに現れる。トゥライヤはそれを受け取ると、構えた。
 ためらいは、なかった。
 地に刺せば簡単に終わらせられるものを、しかしトゥライヤは直接竜の硬い鱗に、肌に当てることで終らせようとした。短くはなかったが、長くもなかった。
 陽の光りに照らされて、血潮がまぶしい。









 ひときわ大きな、強い上昇気流に身を任せながら、二人は舞い上がるそれぞれの髪を押さえ付けていた。
「アル・トゥライヤ、ときに何故、プレアデスと名乗らない?」
「だってその名は、あまりに不遜すぎるだろ、ピュリ・パラ・ピクシス?」
 世界を支える女神達の名を口にするなど。
「それに、三種の秘宝を、竜以外の何ものに対して使うつもりなんだ、アード」
 その呼び掛けに、一瞬だけピュリを見やって、トゥライヤはすぐに視線を戻した。
「さあな。俺はただこれが欲しかっただけ」
 いつも右手首に着けている三種の秘宝と呼ばれるものの重みを、時折感じるようになったけれど。
 それは七柱の女神達、プレイアデスに託された言葉の重みなのかもしれないけど。



 だからただ、祈りを捧げる。
 碧と蒼の狭間に消えた向こう側に、女神の島があることを知っている。プレアード島と、呼ばれている。
 そこに降り立った一柱の女神が御名を持つ島。

 だからただ、祈りを捧げる。
 霧のなかに立つ女神達の御姿を、見はるかす眼差しも持たずに。










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