砂礫に覆われた静かな風。
六つの月が影をつくる未来が見えても、逃れることも許されない。
だからただ、砂に閉ざされた情景を見る。
いつか眼差しに代えても
渇いた風が、抜けていく。ざらついた掌を、もう何度めか振り払って、歩いていた。カゼレクと、彼は名を問うものに答えるだろう。短い赤茶けた髪も、砂の灰色に染まって、体中砂だらけになって、歩いていた。
ここは、風と砂の沙漠。死の砂漠といつか呼ばれることになろうけれども、今はまだ生命がそこかしこに、ある、砂ばかりが視界を制する世界。ここには竜達が棲んでいる。種族の中で最も小柄で、最も好戦的な、砂塵竜と自らを称する灰色の鱗を持つ竜達が、そこかしこに、いる。
カゼレクは見えないそれらの視線を感じながらも、歩みを止めることはなかった。
あたりには時折、塔が見えた。大小様々な、不揃いの塔たち。
それは、砂礫で出来た竜の遺産だ。砂塵竜はそれを守って、この地に在る。彼らの縄張り意識の強さは、その塔の守護者たらんとするゆえだと、カゼレクは知っていた。
遠く、竜の咆哮が聴こえてくる。砂塵竜が啼ないている。
ふと、きらりと何かが光った。砂ばかりの視界の端で、何か青いものが煌めく。カゼレクはそれに気付いて、不意に視界に現れたものをまじまじと見つめて、言った。
「貴方は…!」
「アル・トゥライヤ。騒ぐな」
不機嫌そうな顔が、そこにある。空より深く海より鮮やかな、両の瞳で、それはカゼレクを見つめ返す。銀の髪が風に弄もてあそばれ、棚引く。
「アル・トゥライヤ? …なぜ、ここへ」
「奴らが来るから」
存在の理由を短い答えに留め、トゥライヤの視線が動く。目で指し示す先に、影が見える。後から後から世界に湧き出た異質なるもの。六つの月の影を背に負う、黄土色の体躯の竜が、飛来してくるのが見える。
ずっと遠く、影とは正反対の方向からは、竜の咆哮が聴こえてくる。
砂塵竜が、その異質なる竜を呼んでいた。自らの住処に、在らざる竜を呼び寄せようとしていた。咆哮は、低く、鋭く、威嚇を込めて響く。
長く黄土色の体躯の、この世界に在るはずのない竜が滑空していく。好戦的な竜の挑発に引き寄せられて、小さな大陸、アルゲニブから次々と海を越え渡ってくる。幾つもの不吉な影が砂漠に落ちた。
『来れ、異質なるものども』
砂塵竜は吼え続けた。
混血の竜がいた。草原と、砂漠の間に生まれた命。けれど消え入りそうなその命が、生を終える間際に隣の大陸に棲む草原竜の危機を伝えてきた。自らのこれからと引き換えに届いた信号を、砂塵竜は狂おしく捉えた。
種族で最も大人しく穏やかな、草を生む紫瞳の同胞はらからを、守らなければ。
けれどもう、アルゲニブの大草原には黒曜石の輝きを鱗に持つ竜がほとんど残ってはいないことを、この優しい砂漠の竜達は知らない。知る手立てがない。不意に現れた侵入者は、既にアルゲニブを荒らし尽していた。
次々と上空を通過していく六枚羽の竜を見上げると、その後を追うようにカゼレクは【飛んだ】。黄土色の竜の行く先に、砂塵竜の住処があるだろう。トゥライヤも、遅れじと【跳ぶ】。
そうして二人が同時に降り立った場所には、いくつもの塔と、大きなひとつの群れが在った。無数の塔が林立し、その合間に子も雌も、幾つものまとまりになって翼を立て威嚇するように円をつくっている。そこかしこで竜が争っていた。砂色の小さな竜と、長い体躯を持つ竜とが、地で、空で、塔を巡って。海のように波打つ、見渡す限りの砂の大地には、争いと同じく終わりがないように見えた。
その光景に、トゥライヤはいっそう不機嫌な顔になる。形勢は見るからに悪い。砂塵竜では、力不足を否めない。異質なる竜の吐く濃い毒の霧は、砂色の鱗を持つ竜の動きを鈍くさせている。種族最小の竜が、そのスピードと小回りの利く動きを生かしきれずに、傷つき倒れていく。
数が、追い付かない。力が及ばない。
トゥライヤはたまらずつぶやいた。隣のカゼレクにも、それは聞こえた。
「草原の竜が殺された。侵入されたと気付いた砂漠の竜は、同胞はらからを助けたいだろうに、だけどここを離れられない」
「だから、なんだって言うのさ?」
「手を貸してやりたい」
カゼレクの問いに、トゥライヤは振り向かず答えた。だからカゼレクの絶望にも似た表情は見えない。「アル・トゥライヤ、私達は何のために降りてきた? 竜を救うためか?」
声を絞り出して、色のない瞳が細められる。
不意に、トゥライヤの胸の中を、情景が駆け抜けた。静かな風の中、小さな小さな竜が生まれる。翼を寄せる、二つの小さな影。老齢な、優しい眼差しがそそがれた先に若い竜。砂を舞わせて広げられる翼、飛び立つ幾頭もの灰色の竜。硬い鱗を砂にさらしたまま、眠りにつく竜の吐息の穏やかな。
さまざまなイメージが、駆け抜けていく。トゥライヤの目蓋にその光景を焼きつけてゆく。
それがただのイメージではないと、トゥライヤは気付いた。それは竜の、記憶だ。
数百年にも及ぶ、彼らの生きた時間の、そのままの。
(こんなものを…守って?)
塔に刻まれたものであると、無意識のうちに感じた。文字を持たない生き物の、それがせめてもの未来への遺産なのだろう。
目を閉じ、また開くと、情景は止んだ。トゥライヤはすぐ側に立つ砂礫の塔を見上げた。一つに一つずつ、砂塵竜がついている。一頭が魔竜の攻撃に倒れれば、すぐに別の竜がその塔の前に立ち塞がる。多勢の竜に果敢に立ち向かう。
(なんで、)
『それ程までに大切なものが在るのに、なぜ此処へ不在あらざる竜を呼ぶ?』
『我等はこの地を離れられぬゆえ』
トゥライヤの竜の言葉に、砂塵竜の一頭が応えた。
竜のためだと、その竜は応えた。同胞を助けんとするならば、自らの守るべき最も大切なものさえときに捨てるのだと、毅然とした声で。それは砂塵竜の生きる意味でもあったのに。
灰色を宿す瞳は伝えてくる。遠く過去をみる、いつかを見つめるその眼差しに代えても、来る命を守らなければならない時がある、と。
――なぜ砂塵竜は、こんなにも。
トゥライヤの口に、自然と言葉が沸いて出る。
「…爆ぜる岩砂の礫の音を」
台詞は低く、けれど効果は絶大に。突如、砂地が跳ねた。大小の隆起が砂を、砂礫を飛ばし、異質なる竜を攻撃に曝す。
「アル・トゥライヤ!」
カゼレクは、はっとして。
「何をしている、これ以上は」
カレゼクの乞うような眼差しに、トゥライヤは目を背ける。
「手を出すな、とは、今のお前には言えないはず」
言葉を終えて、振り返る。
命ずる者と命ぜられる者との、瞳がかち合う。勝ったのは命ずる者、アル・トゥライヤだ。
カゼレクは唇をかんだ。干渉してはいけないと、言われたのではなかったか。痕跡を残すわけにはいかないのだ。他に誰もいない、止められるのは私しかいない。
(でも、どうやって?)
つぶやきが胸の内に消えたとき、しかしカゼレクは心を決めていた。
「アル・トゥライヤ、私達は何のために降りてきた? 竜を救うためか?」
声を絞り出して、色のない瞳が細められる。
首を振る。ヒト、と呼ばれる生き物は、この地にはいない。まだ存在しない。
そのヒトの仕種を真似るように、カゼレクは首を振ると言った。
「私はけれど、貴方を認めない」
「認めろ、パラ。お前は私の下に在る」
短い言葉が終わらないうちに、風が抜けた。ざらついた砂を含んで強い風が二人を襲う。すぐ真上で羽音がした、影が落ちた。竜だ。くすんだ砂色の鱗を持つ砂漠の主が、姿を表す。
竜ならざる言葉など解さないはずの竜は、しかし、まるでやりとりを聞き取ったかのように、静かな憤りをたたえて吼える。
『神なるもの、この世界に不要なるものよ、我々は汝が奇蹟を拒む』
雰囲気だけで、その思惟を読み取って、
「だってよ、アル・トゥライヤ。戻るか?」
「お前だけ戻れば」
トゥライヤの答えはそっけない。色のない瞳で、カゼレクは肩をすくめた。
「そうやって、独りで世界に在ったんだな」
六つの月に照らされて、六枚の羽を持つ竜が飛ぶ。一斉に舞い上がるそれらの羽撃きに砂塵が巻き起こったとき、その一瞬の隙をカゼレクは見逃さなかった。
トゥライヤをさえも出し抜いて、【跳ぶ】と、群れの真ん中に躍り出る。最も小さな塔の影に、それはある。地に刺さる細身の長剣を、砂塵竜の額にあるのと同じ灰褐色の宝玉のはめ込まれたそれを、事も無げに手にする。束を握り大地から一気に引き抜き、構えた。
『竜ども、そこまでだ』
竜が吼えた、怒りとともに。
カゼレクは構わず、振り下ろそうとした刹那、眼前に迫る銀の風に気付き、身をひく。
トゥライヤがいた。青の宝玉のはめ込まれた、抜き身の剣を手にして。
「パラ」
言葉とともに腕を翻ひるがえしたトゥライヤの手にはもう、剣はない。あるのは二重の環を持つ錫杖。輝きが溢れた。
至近距離の光りを避けきれずに、カゼレクは思わず目を瞑り、自らの失態をすぐに悟る。またたきの間に、視界が反転していた。飛び交う砂で曇った空が目の前に。青の瞳が眼前に。
「カゼレク・パラ・カリーナ、言ったろう、お前は私の下に在る、と」
トゥライヤはその名を厳かに唱える。呼ばれたカゼレクにはもう抗あらがう術すべはない。トゥライヤは灰褐色の宝玉の剣を奪うと、それを宙に放った。地に落ちる前に、カゼレクの頭上で剣は掻き消える。
辺りを見れば、竜が増えていた。侵した竜も、侵された竜も。傷ついた竜も、傷つけた竜も。
トゥライヤはだから、緊張を解かずに。
「私は在るべき竜に味方する」
さらりと述べた言葉に、カゼレクはそれでも首を振る。
「アード、」
と、トゥライヤの名前の一部を唇に載せ、
「わかってるのか? それが、どういう」
「わかっているさ」
トゥライヤにだってわかっていた。この侵入の混乱に乗じ竜の剣を奪い続けることが、何を意味するのかを。だが理解るのと頷うなずくのとは違う。ただ頷くだけの存在に成り下がるのは、嫌だった。ならばせめて、自らの意志で、最後まで見届けたい。
「では、これからをどうする?」
「べつに、何も」
変わった動きをとれば、感づかれると暗に含ませ、トゥライヤは会話を打ち切って、もう一度、竜達が争う塔を見た。
とたんに光景が胸をつく。色のない情景が駆け抜ける。静かな風の中、小さな小さな竜が生まれる、あどけないその瞳。翼を寄せる、二つの小さな影の揺らぎ。老齢な、優しい眼差しがそそがれた先に若い竜とそのつがい。砂を舞わせて広げられる翼、飛び立つ幾頭もの灰色の竜が遠くなってゆく。硬い鱗を砂にさらしたまま、眠りにつく竜の吐息の穏やかなる色。
さまざまなイメージが、胸の内を駆け抜けていく。消え入りそうな命と引き換えに、情景が薄れてゆく。――なぜ砂塵竜は、こんなにも。
こんなにも、言葉少なに、悲しみを伝えてくるのだろう。
痛みを抱えて止まないのだろう。
数百年にも及ぶ、彼らの生きた時間の、そのままの記憶が、その光景が、消えようとしている。戦いに敗れた竜の守る塔が崩れていく。
それは、カゼレクには視えていなかった。竜に対し心を閉ざしていたから。だが竜の記憶に触れたトゥライヤは、沸き上がる衝動を抑えきれずに。
(――壊させるものか)
「パラ、召喚だ」
青の瞳はそれを命ずる。
|荒き砂塵の一振りよ|
カゼレクの掌中に、灰褐色の宝玉のはめこまれた長剣が現れる。トゥライヤは剣を素早く受け取ると、構えた。砂ばかりが続く限り在る大地に力強く突き刺す。
爆音が弾けた。それは広く、遠く、強く、大地を叩く。あらゆる竜を叩く。
「竜鱗を、纏うものには祝福を」
言葉が唇の上を滑る。カゼレクが発した静かな言葉が、二人の距離を遠くする。空より深く海より鮮やかな両の瞳を、トゥライヤは閉じ、しばし黙り込んだ。
踏み出して、しまった。
渇いた風が、抜けていく。ざらついた掌を、もう何度めか振り払って、歩いていた。カゼレクと、彼は名を問うものに答えるだろう。短い赤茶けた髪も、砂の灰色に染まって、体中砂だらけになって、歩いていた。
ここは、風と砂の沙漠。死の砂漠といつか呼ばれることになろうけれども、今はまだ生命がそこかしこに、ある、砂ばかりが視界を制する世界。ここには竜達が棲んでいる。種族の中で最も小柄で、最も好戦的な、砂塵竜と自らを称する灰色の鱗を持つ竜達が、そこかしこに、いる。
カゼレクは見えないそれらの視線を感じながらも、歩みを止めることはなかった。
あたりには時折、塔が見えた。大小様々な、不揃いの塔たち。
それは、砂礫で出来た竜の遺産だ。砂塵竜はそれを守って、この地に在る。彼らの縄張り意識の強さは、その塔の守護者たらんとするゆえだと、カゼレクは知っていた。
遠く、竜の咆哮が聴こえてくる。砂塵竜が啼いている。
ふと、きらりと何かが光った。砂ばかりの視界の端で、何か青いものが煌めく。カゼレクはそれに気付いて、不意に視界に現れたものをまじまじと見つめて、言った。
「貴方は…!」
「アル・トゥライヤ。騒ぐな」
不機嫌そうな顔が、そこにある。空より深く海より鮮やかな、両の瞳で、それはカゼレクを見つめ返す。銀の髪が風に弄ばれ、棚引く。
「アル・トゥライヤ? プレイアーデスではなく?」
「その名で、私を呼ぶな」
「なぜ?」
アル・トゥライヤと名乗ったプレアデスが青の瞳を閉じる。名をくれた女神達の顔はもう、覚えてはいないけれども、その御声はまだ確かに、胸の内に留まっている。
「…不遜すぎる」
「でも、それを、貴方は貰ったんだろう。受け入れろ、ってことじゃないのか?」
カゼレクはしかし、軽く首をかしげてみせた。
プレイアデスは彼を見た。未来をみる者達の眼差しが、交差する。
「なぜ、ここへ?」
竜の亡骸が、白く朽ちていた。
風が止んだ砂漠に、降り立って、悔しく唇を噛み締めて、プレアデスはその竜だったものをみる。半分以上も砂を被った数多の白っぽい塊が、砂の大地に幾つもの影を落している。それはあたかも墓標のよう。
生き延びた竜達もあったはずなのに、どこへ消えたというのだろう。息遣いさえ聞こえてこない。
かつて触れた塔も崩れ、何の情景も見えてこない。何も浮んでこない。
プレアデスはその手を翻して、二重の環を持つ錫杖を手にする。くぐもった砂の大地に立て、胸に手を当て。
「…爆ぜる瀑布の勲の音を」
静かに風が吹き抜ける。冷たく湿気を含んだ風が、砂の地を低くかすめていく。地上にあった白っぽい塊が風に煽られて崩れ落ち、細かい欠片になる、それは細かい白片になる。朽ちかけそびれた魂がまだ残っていたのだと、プレアデスは気が付いた。
急に風が強くなる。砂が混ざり、亡骸の欠片が風に乗った。一斉にそれらが空へと舞う。真っ白な花びらが大量に、見上げるプレアデスの目の前を覆い尽す。踊り狂うようなめちゃくちゃな風が、視界一面の白の欠片を舞い散らかす。
それは最期の唄。
始まったばかりだ、この長い惨事は。ならばせめて、早く終わらせなければと想う。
――それがいつかの決意を覆すことになっても。