>>> 小説目次
草原に佇む少年を呼びとめたのは、幾つも違わない若い青年だった。
下半分だけ姿を見せる月が、夜空に不気味な色で光りを放っていた。
月光に照らされた少年は、不相応なほど大人びて見えた。…まるで。
まるで、これから始まる長い長い惨事を予見してでもいるかのよう。
竜鱗を纏うものたち
大陸を分かつように、中央を横断する山脈がある。北を砂漠に、南を森林に挟まれた山々は、そこに棲まうものから『霧の山脈』と呼ばれている。海から吹き上げてくる、大量に潮を含んだ風が豊かな水分を樹々にもたらし、辺り一面、常に霧に覆われた状態にあるためだ。かつて盛んに火を噴いた山々は今は死に、その身を樹々の苗床とするばかり。
ローブ
薄手の涼しそうな礼服を羽織り、短剣を二つ懐に忍ばせた男が、その山脈へと続く道を登っていた。
まだ若々しい顔には、表情が乏しい。背の中ほどまでもある艶やかな黒髪が、綺麗に束ねられている一方、余った髪が顔の横に無造作に垂らされていた。
彼に名を問えば、レクセン、とだけ答えるだろう。
無愛想な彼は、空にちらりと目をやって陽の位置を確かめ、それからまた飽きるでもなく道を登っていった。
今ひとつ、空を横切る影がある。
霧の山脈を棲み処とする竜の幼生が、その身軽さゆえに空を飛んでいるのだった。頂きに着くまでに、レクセンはいくつかの球体を見た。人の腰くらいまでもあるその大きな球体は、白く濁っているのが表面なのか内側なのか見当もつかない。ただ、それが捨てられたものであることだけが、唯一レクセンにわかったことだった。
もう何十年も昔から、そこに置き去りにされているのだろう。すすけた表面を撫でると、指の跡が付くくらいだった。半分埋まりかけたものまである。
海抜数百の高さにまで来て、息苦しさを感じることはなかった。平地より低い気温が、少し気になる程度。霧の山脈に棲まう竜族は、地久竜、という名を持っていた。幼生を除けば、飛ぶための翼を持たない彼らは、地に降りて久しかった。悩みを抱えて久しかった。
レクセンが頂きまで辿り着くと、その到着を待っていたかのように二人の男が近付いてきた。額の中央には小さな、暗い赤の色をした宝玉がはめ込まれている。
彼らは竜族だった。
竜のなかでも最も巨大な体躯を持つ彼ら地久竜は、レクセンの大きさに合わせてヒトの姿をして現れたのだった。
「お待ちしておりました」
彼らの一人がそう言って迎えた。
「わざわざ迎えられるほど、偉くはないですよ」
謙遜してレクセンが言う。
「しかしこれ以上深い道は、ご存じではないでしょう」
「確かに」
レクセンが頷くと、彼らは前と後ろとについた。
「行きましょう」
先行するように一人が言い、歩き出すと、レクセンの横にもう一人が並んだ。
「険しい竜の道ゆえ、道中お護り致します」
自分の身くらい守れるんだけど、とは思ったが、レクセンは口には出さなかった。深い洞窟をどれほど進んだことだろうか。
およそどんなに小さい竜でも通れるとは思えない空洞を、三人は下っていった。
やがて光りが見えてきて、その眩しさにレクセンは思わず目に手をやった。
目が慣れてきたとき、見たのは数多の巨大な竜達の姿だった。
「おお…」
それ程にたくさんの地久竜を、これまでに見たことはなかった。彼らの種族は数が少ないのだと聞いてもいた。
『お久しぶりです』
中でも一番巨大な、老練な竜に向かってレクセンは竜の言葉を紡いだ。彼とは過去に一度、挨拶を交わしたことがある程度だったが。
『変わらぬな、神の奇蹟の代行人よ』
前に合ったときより覇気の衰えた声で、その老練な竜は吠えた。
『余計な挨拶は飛ばしましょう、お聞きします、御用件は何です、長老?』
『…此処へ至る道の中途に、白濁した岩を見たと思うが、あれが何であるかわかるか』
『僕には竜の慣習など理解できませんよ』
レクセンは素っ気なく応じた。
『あれは、我が一族の卵だ』
『…卵?』
言い慣れない言葉を、レクセンは発音し直した。
『卵ならば、大事なものでしょうに。放っておいてよろしいのですか』
『…あれは死せる卵なのだ』
竜は幾分沈んだ様子だった。低い声が、更に低くなる。
『生まれるはずの子らが生まれず、仕方なく捨てた。この悲しみを何が癒してくれよう』
涙こそ浮かべなかったが、老練な竜は地を震わすほどの身震いをした。
『それでは、僕に何をせよと仰いますか』
『神の奇蹟の代行人よ、お前ならその理由を知るのではないか』
『…まさか』
『ならば知っていただきたい。そして我らに教えていただこう。それが用件だ』
『わかりました』
レクセンは深々と頭を下げた。
道理で山が静かだ、と思ったのだった。
以前来たときは、多くの仔竜が空を舞っていて、とても騒がしかったから。山の頂きへと戻る道も、二人の男は送ってくれるようだった。
深い洞窟を、今度は登っていく。
レクセンは、聞いてはいけないかもしれないことを、敢えて口にした。
「ひとつ尋ねたいのだが、卵が孵らないというのは、そんなに深刻な事なのでしょうかな」
「ああ、深刻だ」
「貴方も一頭が飛んでいるのを見ただろう、何しろこの百年で、あの子を含めて二頭だ」
二人は矢継ぎ早に答えた。
「どうなっているんだ、まったく」
「このままじゃ滅びかねない」
それなりの危機感を持っているわけだ、とレクセンは一人納得した。
頂きにつくと、二人は不安そうにレクセンを見送った。
長老の知り合いだとはいえ、たかが使いに何ができる、とでも言いたげだった。
まあ、なるようになるのさ。
やはり口には出さずに、レクセンは頂きを後にした。
頭上を、気持ち良さそうに幼生の竜が飛んでいる。どちらかといえば、何故あの子が孵化できたのか、ということのほうが不思議だと思うがな、と皮肉に思った。急ぐこともなかったので、ゆっくりとした足取りで降りていく。
いつの間にか陽も沈み、だから麓まで降りるまでに、空はすでに闇色に染まっていた。
「100年に二匹、か…」
星々を見上げながらつぶやいた。
たとえばあれだけの星々の中に二つだけ輝きが増えたとして、誰がそれに気付くだろう。
たとえばあれだけの星々が半分、いや10分の1になったとして、誰が増えたことに気付くだろう。
だが彼らが心配するのは、彼ら全体がほんの僅かしかいないためだ。
減る数より増える数が少なくなれば、必然的に滅びへの道を歩むことになる。それを懸念するのだろう。
レクセンは特に定まった方向へ歩いているわけではなかった。
ただふらり、と、気の向くままに歩いているだけだった。
草地に出たとき、一つだけ不自然に立つ樹が見えた。影になっていてよく見えないが、枝や葉があまりない。
近付いてみると、その訳を知った。
それは樹などではなく、レクセンと同じような外見を持った生き物だった。人間、と呼ばれる生き物は、まだこの大地にはいない。
いるのは七種の竜達と、数万種にも及ぶ動植物だけ。
やがて彼ら竜族が大陸の端に追いやられることになろうとも、今はまだその時期ではない。神の奇蹟の代行人たるレクセンは、そこに立つものに興味を持った。
ヒトの姿をした竜か、はたまた神そのものか。
どちらにせよ引きずり込むだけの価値は在りそうだと、彼は判断した。
「そこに立つのは誰か」
背後からレクセンは誰何の声を飛ばす。
佇むものがゆっくりと後ろをを振り返る。
少年の顔をしたその生き物は、背と顔に似合わないような、大人びた表情を浮かべていた。
「竜か、…それとも、神か」
レクセンが問う。
彼は逡巡することなく、口を開いた。
「私は、アード。竜ではない」
彼はそれ以上、自身の事について何も言う気はなかった。
冷たい夜風が二人の間を過ぎていった。まるで永遠に、二人が互いの影を踏めないのだ、とでも言うかのように。見えるはずもない星の動きを目で追いながら、レクセンは隣に立つ少年に声をかけた。
「アード、って言ったな。お前、何をしてる」
「何も」
「じゃあ暇か?」
「うん」
「なら、手伝ってくれないか。竜の卵が何故孵らないかを、調べなきゃならないんだ」
「わかった」
二つ返事で了解して、アードはレクセンの顔を見上げた。
そう変わらない年齢に見えたが、もしも相手が神だとすれば、比べられないほどの長さの、年の開きがあるはずだった。
「行こう。場所は、火口。竜が卵を産みつける場所だ」
レクセンが腕を振る。踊る指先が宙に輝ける軌跡を描き、人の背丈程もある楕円の輪を、魔法陣を瞬く間に作り上げた。
「【跳ぶ】ぞ。耐えることくらいできるだろ」
レクセンが輪の中へと飛び込む。アードは迷いもせずにその後を追って飛び込んだ。
白くて青い光が、頭の中を満たすような感覚。
目をあけて見ているのか、目を閉じて見ているのか、そんなことはどうでもいいように思えた。気付いたとき、アードは火口の淵に佇んでいた。隣にはレクセン。先程と変わらない距離で、アードの隣にレクセンが立っている。
「見ろ」
もはや火を噴かなくなった火口を指して、レクセンが言う。
アードが目をやると、そこには三つの白い塊が見えた。岩のような、少し灰色がかった白い丸い物体がそこにある。
「あれが、竜の卵だ」
言いながら、レクセンが近付いていく。
殻の表面に触れてみたり、叩いてみたり、耳をあててみたり、している。
不意にアードを振り返って、彼が言った。
「暑いか?」
何を急に、という顔で、アードは即答した。
「否」
「だろう、原因はそこにあると思うな」
手招きされて、アードが側に寄った。
「触ってみろ。熱くもなんともないから」
言われて触れた殻は、確かに熱くはなかった。
「何の関係が?」
「…竜の卵は、相当な熱の中で孵化すると聞いている。そしてかつて、ここは活火山だった」
海から吹き上げる風が持ってくる水分を、すべて蒸発させるだけの熱を、この山脈は持っていた。それゆえに『霧の山脈』と呼ばれたのだ。常に飽和状態にある大気が、いつでも雨を降らし、山脈を白い霧で覆っていたから。
「今は寒過ぎるんだ、卵にとっては」
アードは、殻に耳をあててみた。音はしなかった。
「死んでいるのか?」
「おそらくはな」
レクセンは、卵の上に飛び乗った。ざらざらとした表面のおかげで、彼が滑るようなことはなかった。
「お前が神だとして、この状態を何と見る?」
「仮定はともかく、竜族の危機だと見るな」
「そりゃ危機さ」
レクセンは、両足で表面をどかどか蹴った。
「死んだ卵ばかりに目をやっていて、他のことが見えてない」
「他のこと、とは」
「いずれ始まる大悲劇のこと」
それ以上何も言わずに、レクセンは卵から飛び降りた。
「戻るぞ。とりあえずは報告だ」
来たときと同じような魔法陣を描き、レクセンもアードもその中に飛び込んだ。今度は、山の中腹にいた。
ついてこようとするアードを引き止めて、レクセンは言った。
「ここで待っててくれ、一人で行ってくる」
不満そうなアードに、レクセンはくぎを指した。
「万一僕が戻らなかったら、気にせずに一人で帰るといい」
どれだけ待てばいいのかを告げずに、レクセンは山を登っていった。
アードが暇を持て余すように空を見上げれば、相変わらず小さな影が、ゆったりと舞う姿が見える。
「その偉大さは昔も今もずっと、変わらないと思うんだけどな」
アードはつぶやいた。二人の男に護られて、洞窟を抜ける。レクセンは再び、老練な竜と対峙していた。
『どうであったか』
『お答えしましょう、卵の孵らぬわけを、そしてまた、あなた方の未来がどうであるかを』
言うや否や、レクセンは短い詠唱と共に高く跳躍して、老練な竜の背を越えた。
ざわめく竜達を気にも止めずに、懐に手をやった。
そこには短剣が二つ。
詠唱の完成と共に、二つの短剣を放つ。
輝きながら凄まじい速さで飛んだ短剣が、卵を持つ雌の竜ののどに突き刺さる。
『なんと!』
ざわめきどころではなくなった。
雌の竜が血飛沫をあげながら倒れると、近くにいた竜達が一斉に吠えた。
耳をつんざくような高い咆哮が、山脈をこだまする。
レクセンはなおも跳んで、竜達の背後に立つ。
そこには、一振りの重たい剣が、地に斜めに突き刺さっている。
剣の柄には、ひとつの宝玉がはめ込まれている。暗い赤の色の宝玉、それは地久竜の額にあるものと同じ。
レクセンは柄に手をやった。
竜達が吠えた。
渾身の力を込めて、剣を引き抜く。
『未来を見たくば、外界を見よ! 己だけが強きと奢るな、熱き火山とて死したのだぞ!』
レクセンは、詠唱とともに剣を振り下ろした。地に落とされた切っ先が、そこに割れ目を作る。
噴き出したのは、熱き液体。
自身では浴びないようにと一歩下がり、レクセンは叫んだ。
『己の身だけを思うほど、次なる命は遠ざかろう。恐れるな、やがてくる惨事に怯むな。逃げようとするな』
彼の叫びを聞くような竜は、いないように思えた。
怒りに狂った竜達は、たった一人の使者めがけて、襲い掛かった。光りの柱が、竜達の巨大な体躯を貫いた。幾頭かの竜が倒れ、また幾頭かが傷を追った。
柱の中から現れたのは、使者より小さな影。
アードだった。
剣ごとレクセンを抱えて、アードは竜達を一睨みした。
『悪く思うな』
そしてすぐに光りの柱は消えた。
アードの姿も、レクセンの姿も消えた。
後に残されたのは、死んだ、傷付いた、怒り狂った地久竜だけ。二人が最初に出会った草原に、アードは降り立った。ゆっくりとレクセンを抱え起こす。
「お前、竜を殺したのか」
「ああ」
悪びれる様子もなく、レクセンは答えた。
「愚かなことを…」
「竜を殺すのは、嫌いか」
「……」
躊躇う素振りを見せもしなかった相手が、一瞬だけ躊躇するのがわかった。その事に驚きながらも。
「竜を殺すのは、嫌いか」
もう一度問うと、アードは答えを見つけたようだった。
「嫌いとか、そういう次元の話じゃない」
「そうか」
レクセンが視線を外したすきに、アードは行動に出た。
竜の血を浴びた重々しい剣を、レクセンから力ずくで取り上げる。
「パラ」
冷ややかに、アードは名を呼んだ。
「私の配下につかないか」
切っ先を、レクセンの首の横、肩の上に置いたまま、彼はそう問いかけた。
斬られる、ととっさにレクセンは思った。
切っ先が、下ろされる。
しかしアードは、そのまま軽く肩を叩いただけだった。
レクセンは脱力したように、言った。
「――刀式、とは、また随分世俗的なことを…」
未来を見るものたちは、互いの目を見た。
レクセンの灰色がかった青い瞳と、アードの濃い水色の瞳とが合う。
険しい顔で、アードはレクセンを見返した、何故それを知っている、とでも言いたげな様子で。
レクセン・パラ・レチクルはそれには答えずに、笑みを浮かべただけだった。
そして呪文のようにつぶやいた。
「竜鱗を纏うものには祝福を」
血潮がまぶしい。
六つの月が影をつくる未来が見える。