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 風雪の覆うときの中で。
 六つの月が影をつくる未来が見えても、抗う術を知らない
 だからただ、風に抱かれ流れに身を委ねる。











訣別を知る頂きの音を










 西のカペラ大陸の北部には、幾つもの頂きが連なる山脈がある。荒れた風が深い谷底をさらい、雪の地表にそって吹き付けては山頂の雪を舞い上げる。一面の銀世界は美しく、しかし空気は薄く、気圧は低い。ただこの山脈の主たるものだけが在ることを許された場所。ここは“銀嶺山脈”と呼ばれている。竜族の中で最も力のある、この深い谷から生まれる古いにしえの風を纏う古風竜が、ここには棲んでいる。
 一頭が風に包まれ、優雅に頂きから飛び立った。また一頭、そしてまた一頭。若き竜も、老齢な竜も、雌の竜さえも、次々と飛び立ち、空へと昇っていく。彼らは同じ場所へ向かっている。
 その幾つもの影の下を、一人の、竜ではないものが歩いている。吐く息は白く、形を止められずに霧散する。竜に比べはるかに小さな足跡は、吹雪によってすぐに消えてしまう。彼に誰何する者があれば、穏やかならざる声でホルヴィと返すだろう。明るい茶の長い髪をなびかせたまま、ホルヴィは立ち止まった。連なる山々にも似た隙のない険しさを顔に浮かべて、眼前に鎮座する気高き獣に向い立つ。銀の風が吹く。目を細め、古風竜は吼えた。
『我らには時間がない、自ら進んで壁となるのか、神の奇蹟の代行人よ』
『邪魔をしたいわけじゃない。聞かせてくれ、そんなに慌てて、どこへ向かうというのです?』
 ホルヴィを見つめる、老いようとする竜の目が、奥のほうでかすかに光った。
『汝なんじ、一人なるものよ、我らが忌むべきものの末路を知りたくば、とく見届けるがよい』
 咆哮は終り、突如、羽撃きに変わる。風が起こり、大地を覆う銀の氷の粒が煽られて舞い上がる。視界がなくなるくらいの風の中を、大きな影が空へ向かう。
 竜が飛び立つ。しなやかな体躯で、旋回しながら昇ってゆく。
 ホルヴィはただそれを見ているしかなかった。
 先に飛び立ったものを追うかのように、一頭、また一頭と、竜が羽撃きを繰り返す。
「こんなにいたとはな…」
 予想では、もっと少ないはずだった。決して短くはない時間を見守ってきたはずのホルヴィの予想さえ超える数の竜の群れに、彼は険しい顔をいっそう険しくした。谷間から次々と現れる、大小さまざまの銀の鱗をきらめかせる竜。最後の一頭までもが、この地を離れようとしているようだった。
 古い風を纏う竜達は、どんな小さな力をも結集して、かの地に向かおうとしていた。
 この世界に在るはずのない影を持つ、異質なる竜のいる地へ。同胞はらからが傷つき倒れた地へ。
「っくそ!」
 舌打ちは、吹きすさぶ雪の中に消えていく。迷っている暇などあったら、答えを出さねばならなかった。あれを追うのか、在るべき竜を、追うべきか。逡巡ののち、ホルヴィは竜を追って【跳んだ】。あれの場所はわからなかったが、竜の行き先を知らないわけではなかったから。
 ゆっくりと目を開けるとそこは、さきほどまでの銀世界ではなく、一面に灰色の世界だった。風の止んだ砂の沙漠だ。もっとも小さな竜の住処だった場所だ。


 渇いた砂がさらさらと流れていく。幾筋もの砂の模様が、わずかずつ動いていく。複雑な影を落すものが、崩れかけのそれがあちこちにある。流れていく砂に埋もれていくようにも見える。
 その中に、消えかけようとする足跡があった。辿ってみれば、その先に立ち尽くす小さな影があることに、ホルヴィは気付いた。竜ではない。この世界にまだいないはずのヒトの姿にも似たその生き物に、ホルヴィは近づいた。それはすぐ確信に変わった。
「アード!」
 ゆっくりと振り向く、その眼差しに勝てる術などなかったのに、ホルヴィは相対してしまった。夜明けの海の色を宿す瞳が、まっすぐに見つめてきた。
「…パラ?」
 そのものは、ホルヴィの名を知っていたとしても、複称でしか呼ばない。ホルヴィ達の誰がだれであるかに関わりがないのだ。それが再び口を開く。
「私はアル・トゥライヤ。お前はお前の竜を追ってきたのか」
「…ええ、不本意ながら、ね」
 注意深く、ホルヴィが答える。誰がだれであるのか、あるいは知っていてなお知らぬふりをしているのかもしれない。
 トゥライヤは、そんなホルヴィの仕種に全くかまうつもりがなかった。パラ達の誰がだれであるのか、今は意味のないことであったから。
 遠く、空を割く轟が聞こえてくる。この世界に在るはずのない異質な竜は既に、この世界に在りし竜を二種族も蹂躙していた。これを知った在るべき古の竜が、不在あらざる竜を追い詰めんと、戦っているのだ。傷を負う竜は、失うものを抱える竜は、これからも増えるだろう。
「長い長い惨事が、早く終るといい」
 ぽつりとつぶいた声は、どこか悲しそうにさえ。


 険しい顔を変えもせず、ホルヴィはトゥライヤの前に両の手を差し出した。一瞬、身構えたトゥライヤは、しかしすぐに構えを解く。
「何の儀だ?」
「…儀式などではない。俺はまだ、手に入れてないんだ」
 何を、とは、トゥライヤは聞かなかった。その答えは、空の向こうで攻撃を続けている、きらめく銀の鱗の竜が握っている。
「奪えるのか、パラ?」
「奪ってやるとも」
 渇いた砂が、幾ばくかの風に乗って、宙を舞う。未来をみる者達の眼差しがかち合う。それは決して交わることのない道であると、双方は分かっているのだった。


 蛇のように長い、異質なる竜の群れが苦しそうに空を舞う。毒を吐き賢しく動く彼らをしかし追い詰めているのは、世界で最も偉大な力を持つ、古の風の守護を承けた竜だ。
 古き風は、在るべき竜をよく守り、不在あらざる竜の吐く毒の息を寄せつけなかった。
 小さな影を追う、しなやかで美しい巨体。動きの機敏なはずの追われる竜は、追う竜の速度に押されていた。風は、彼らの竜に速さをも授けていた。追い付き、追い越し、吼え、噛み付く。翼を破られた蛇のような竜が、眼下の海へと落されていく。重たい水飛沫が上がった。何度も、何度も上がった。
 古風竜は、ひるむことなく何度も咆哮を繰り返した。老いた竜も、若き竜も、翼がまだやわらかい幼い竜さえも、子を守り卵を育むべき雌の竜さえも、ここにはいた。どんな小さな力をも結集させて、忌むべき魔竜を葬るべく、灰色の空を舞っていた。
 砂漠の竜との戦いで傷つき数を減らしていた異質なる竜には、この場を維持することは、難しくなっていた。群れは、やがて散り散りになる。
 異質なる竜の小さくなった群れが、やがて三方に分かれた。
 ひとつは南へ、またひとつは東へ、そして一番大きな群れが、北へ。
 古風竜はまた一つ大きな咆哮をあげた。南と東に逃げた群れには目もくれず、北へ逃げる群れを追いかける。
 その先にはカペラ大陸がある。彼らの故郷、“銀嶺山脈”がある。何百年も棲み慣れた大事な故郷に、この忌むべき敵を追い込むことにさえ、何の躊躇ためらいもなかった。そこは彼らの力の源でもあったから。油断ならぬ敵を追い詰める場所として、こんなに好都合な場所は他にない。


 小さな長い影を追って、しなやかな美しい巨体が北へ向かうのを、灰色の砂漠でホルヴィとトゥライヤはみていた。
「北だ」
「言われずとも」
 トゥライヤの小さな呪文は、二人を瞬く間に包み込む。小さな風ひとつ巻き起こさずに、二人は【跳んだ】。
 翼の穿うがたれた異質なる竜が沈みゆく荒れた海を越え、カーフ、シェダルとアルゲニブを越えて、その先にあるカペラ大陸に着地する。
 銀嶺山脈の麓に、二人は降り立つ。
 異質なる竜が、銀世界の頂きに到達しようとしていた。そのすぐ後方には、古風竜が迫ってきている。
 逆光がまぶしい。


 異質なる竜が咆哮する。在るべき竜とは異なる、それはかん高い叫びだ。
 彼らとて、むざむざとやられるつもりはなかった。山の頂きから、雪の地表を滑り落ちるように滑空を始めた。群れが通ったあとを、渦巻く風が抜けていく。積もったばかりの新雪が乱風に煽られ辺りを白くさせる。
 彼らは谷間へと潜り込み、その奥へ身を潜めようとしていた。在るべき竜にとって最も大切な、故郷という場所を盾に取ったのだ。


「なかなか上手いやり方だ、知能があるのか?」
「本能だろう」
 トゥライヤは、不機嫌そうに短く答えた。だが古風竜がそんなことではひるまないことを知っていた。何より大切なものでさえ同胞はらからの危険の前には投げ出す砂漠の竜をみた。この風の竜も、同じ覚悟でいるだろう。なんて尊く、なんて得難い絆だろう。そしてなんて悲しい強さだろう。
 助けてやりたいと思っているのに、今のままではどうすることもできない。
 静かに手を伸ばしたトゥライヤの腕を、だがすかさずホルヴィは掴んだ。強く力をこめて、その緑の眼差しを、命ずる者に向ける。
「アル・トゥライヤだと…? 授かった名前を戴くことに躊躇うやつに、そんな資格はないんだ」
「離せ、パラ」
「俺は、ホルヴィだ」
「ならば命じよう、その手を離せ、ホルヴィ・パラ・ホロロギウム」
 命ずる者アル・トゥライヤの夜明けの海の色を宿す瞳が、命じられる者の眼差しを捉えた。ホルヴィは、目を背けた。腕に力がこもらない。
「みろ、パラ」
 命じられるままに、視線をやると、古き風の竜が自らの故郷であるはずの銀嶺山脈に、体当たりをしようとしていた。躊躇いなどなかった。細まる目はたぶん、未来を見ていない。
 山の頂きの一つが崩れ、大きな雪崩を引き起こした。凄まじい量の雪の固まりが、波打ちながら崩れていく。深い谷へ向かって流れ込んでいく。そこには、異質なる竜が隠れている。そこには…。
 ホルヴィの目の奥が、少しだけ熱くなった。
 奪えるのか、と、鮮やかな青の瞳は問うた。奪わなければ、ならなかった。今を逃すわけにはいかない。あれを追うときがきたのだ。
 今ならその場所へたどり着けるだろう。この混乱の最中でなら。
 ホルヴィは谷底へと、走り出していた。走りながら、【跳んだ】。


 この世界で最も気高い獣、そのなかで最も偉大なる力を持つもの、古の風を纏う竜の額には白銀の宝玉がある。
 銀世界にただ一振り、地に深く刺さった剣の束には、その古の風の竜の額にあるのと同じ、白銀の輝きを持つ宝玉がはめ込まれている。普段は竜に守られているはずのその剣は、今はただ無防備に抜き身の姿をさらすだけ。長身に似合わぬ軽い身のこなしで、ホルヴィは剣のそばへと着地する。ゆっくりと、束に手をかける。
 竜達の長い咆哮が聞こえた。離れていてなお、侵入を許したことが分かるのだろう。
「だが、もう遅い」
 ホルヴィはそれを引き抜いていた。重たく美しい、一振りの竜の剣だ。
 遅れて【跳んで】きたトゥライヤが、別の剣を手にしていた。
 鮮やかな青の剣と、竜の白銀の剣が、相対する。
「奪えるのか、アル・トゥライヤ?」
「奪うとも」
 答えはいつも、短かった。トゥライヤは飛び上がり、ホルヴィの背後を取ろうとする。【跳び】、【跳んだ】。
 二つの空間を自由に行き来する力が、銀世界を散らしていく。細かな氷の欠片が舞い、新たな雪が柔らかく吹雪く。
 遠くで轟音がした、また一つ、山の頂きが崩れたのだろう。風が押し寄せてくる。何もかも凍らす冷たい風は、今の二人を止めることはできない。
 剣と剣の刃がかち合う高い音が響いたとき、トゥライヤの剣が、形を変える。鮮やかな青の光りはそのままに、二重の輪を持つ杖になり、雪の地表に大きな弧を描く。ホルヴィの舌打ちは、何の効力も持たない。足元に出来た輪が繋がり、光が満ちる。  ホルヴィの腕を、足を、光が捉えた。
 白銀の宝玉のはめ込まれた剣を、トゥライヤは左手で無造作に掴み、奪い取った。無言のまま、それを宙に放る。光から解き放たれたホルヴィの頭上で、それは掻き消える。ホルヴィのなかに、それは収まる。トゥライヤが呼び出したいとき、それはいつでも手元に戻すことができる。
「アル・トゥライヤ=プレアーデス」
 ホルヴィの声に、トゥライヤは振り向かなかった。その名前をまだ、受け入れられずにいた。
 ホルヴィの言う通り、ほんとうは資格などないのかもしれなかった。
 でも、在るべき竜を助けたいと思ったのは、本心だ。


 谷がひとつ、風に飲み込まれる。山脈の一角が崩れ、大量の雪崩が谷を埋めていく。その下に身を潜めた異質なる竜を、押しつぶしていく。
 古の竜が纏うのは、深い谷底でうまれる風の守りだ。谷が消えれば、その風もまた消えてしまう。
 自らの強さと引き換えに、在るべきでない竜を葬ろうとしているのだと、分かった。
 そんなことは分かっていた。
「パラ、召喚だ」
 その名に、ホルヴィは抗う術を知らない。
|貴き古風の一振りよ|
 ホルヴィの腕の中に、白銀の宝玉のはめ込まれた重たい剣が現れる。トゥライヤは剣を受け取ると、谷底へ向かって走り出した。走りながら【跳んだ】。
 銀の風がひとつ、生まれようとしていた。静かな渦が、すぐに大きくなる。頂きへ向かって上昇を始める。乱れた風が、トゥライヤをめちゃくちゃに叩く。これ以上ないほどの嵐の中で、トゥライヤは静かに剣を傾けた。
 舞い上がりはじめたはずの風が、集まってくる。銀の風が、剣に吸い寄せられるように、消えていく。後から現れたホルヴィは、その様子を不思議そうに眺めた。
「これは…竜の風を引き寄せている?」
「いや、この中に封じているんだろう」
 何のために、とは、二人とも口に出さなかった。それが必然であることに気付いていたからだ。ひとつの風が、剣の中に収まると、二人はすぐに【跳んだ】。
 そこは残された頂きだった。銀嶺山脈はもう、幾つもの峰を失っていた。
 風が弱まってきていた。
 けれど、異質なる竜の姿も、咆哮も消えていた。あの六つの影さえも見えなかった。
 跡形もなかった。
 古の風の竜が吼えた通り、それは全て消えてなくなったのだ。蛇のような体躯の竜は、古の風の谷の底で、迫りくる雪崩の前に為す術もなかったのだ。


 竜が向かってくる。
 それはもはや風をまとってはいない、銀色の鱗を持つ美しい竜。
 その力と引き換えに異質なる竜を葬り去り、勝利した竜。
 しかし彼らの眼差しは、険しく細められたままだ。
 在らざる竜の群れはまだ二つ残っている。南と東に向かったものがある。
『汝、一人なるものどもよ』
 決して衰えない声で、老いようとする竜が吠える。その眼差しは悲しみに満ち、憎しみをなお宿している。
『我らが忌むべきものの末路を知るものよ、とく見届けるがよい』
 銀の風がきらめいた。二つの新たな竜が現れ、それは同種であったはずなのに、老いた竜の双翼を、躊躇いもなく引きちぎる。
 深い音が響く、強い硫黄の匂いが辺りに立ちこめた。
 トゥライヤは思わず目を背けた。ホルヴィはただ黙ってそれを見ていた。翼を失った巨体が、命を失い雪の上を転がり落ちていく。
 逆光に照らされて、血潮がまぶしい。


 南へ、東へ。六つの月の影を背に負う、黄土色の体躯の竜が、逃避していくのが見える。
 そこに竜の同胞はいる。
 危険を知らせなければならなかった。咆哮では届かない。空を渡ったのでは間に合わない。尋常ではない命の消費が、彼らにこの事態を告げるだろう。死にいちばん近かった命が、静かに尽きていく。不足する時間ゆえに光を孕めずに消えていく。
 最期に舞ったのは、落ちついたばかりの真新しい雪だった。
 風の止んだ谷底に、静かに。唯一この山脈に在ることを許された生き物は横たわり、目を閉じた。長い年月をかけて鱗ははがれ肉は朽ち、大地の一部となるだろう。


『汝、一人なるものどもよ』
 若き竜が、震えるように吼えた。その眼差しは未来をみているのでも、世界をみているのでもなかった。突如現れた異質なる竜が逃げていった空を、何も見逃すまいとみつめているのだった。
『我らが忌むべきものの末路を知るものよ、ゆくがよい』
 風の守護を失った竜に、トゥライヤは頭を垂れた。
 自分に何ができるというのだろう。
 だがここに留まっていてはいけない。


 銀嶺山脈はその半ばが崩れ落ち、竜は力を失った。訣別を知る頂きの音を、これから先も忘れないだろう。
 南へ、東へ。六つの月の影を背に負う在らざる竜が、逃避した空へ行かなければ。










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