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       も の
  失われた断片            
1999.08.19



 失われたものの大きさに気付く
 自分がどれだけ小さな存在だったのかを今になって思い出す
 そう自分は、こんなにも、ちっぽけな存在だったのだ


 長く、腰まで届くような程長く透き通った髪が、揺れる。エルムの歩調に合わせるかのように、薄紫色の長い髪が揺れる。
 広く、世界の果ての一端を担う程広く限り無い森の中で、エルムは歩いていた。すぐ前を行く人間から、目をそらさぬまま。
 茶色い髪、日焼けした肌、自分より頭一つ分程も低い背丈の、人間。見たことのない、森の外の動物。自分達とは違う、寿命を持つ種族。
「何を、考えてるんだ?」
 不意に人間が振り向き、深い緑色の瞳をエルムに向けた。エルムは、その色の瞳だけは記憶にあった。懐かしく、優しい、森の守護者の瞳の色。同じ輝きをもつ瞳を、これまでに見たことがない。
「お前の事を、だ。リーフィ。何処から来たのか、と」
「森の外からだよ。魔法王国って言って、わかるか?」
「聞かぬ名だ」
 エルムは首を振った。
 エルフは外の世界に無関心だった。まして、まだ若いエルフのエルムならば、なおさらのこと。人間などが何故、森に興味を持つのかも、皆目見当がつかなかった。


 樹々が、風の音に合わせるように、さわさわと葉を擦った。本来森にいるはずのない動物が、その下を歩いていた。
 よく焼けた肌に、茶色の髪。二本足で立って歩く。それは、人間だった。
 森の番人、エルフの一人、エルムは興味本位で人間に近付いた。異質な存在のはずだった。何故、森に人間などがいるのか。

「人間よ」
「……誰?」
「何故、来た?」

「君は…?」
 人間の驚いた顔が映った。一瞬、幼く見えたのは気のせいだったか。
「私の名はエルム。森の番人の一族。人間よ、お前は何をしに、来た?」
「道に迷ったんだ。それで…。あっ、僕はリーフィ。リーフィ・ライ・レラルド」
 リーフィが差し出した右手を、エルムは理解できなかった。


 森の中を、歩く。迷ったと言った人間は、それにしてはしっかりとした足どりで、進む。エルムは後からついていくだけで、理由も聞かなければ否定もしなかった。

 何をしに来たのか?

 出会ったときに投げかけた問いは、まだ答えをもらっていなかったのだから。





 しぃ…んとした闇のような空間。
 燭台のろうそくの、揺らぐ炎に照らされるは、たった二人の影。

「世界の果てを覆わなくてはいけない」
「そこから魔獣が侵入してくるから、ですね?」
「そうだ」
「けれど、そのためにこの子を…」
「仕方のない事だ。我々にはどうする事も出来ない」
「私は失いたくないのです」
「失うわけではない。少し、ほんの少し遠ざかるだけだ」
「ですが…」
「だまれ! 我に逆らうのか? 世界を作ったのは…」
「自分の一族だ、と言いたいのですね」

 あるはずのない風が、炎を揺らした。




 遥か彼方へ続く森。青々と茂っていた森が、わずかながら茶や赤や黄を帯びてきた。もうすぐ訪れるはずの寒さを、誰よりも先に感知した、樹々の装い。
 だが、彼らにも気付かれない程の隙間から、すでに最後の季節が動き出していた。


「エルム?」
 止まって、呼ぶ。リーフィが振り返るといつも、エルムの不機嫌な顔が映る。
「リーフィ、お前は何を、探している?」
「僕は道に迷っただけだって…」
「私はこの森に住む。この森を感じる。今この森が、お前を怖がっている事を、私は知っている」
「なんだ。ばれてたんだ」
 リーフィが、すぐ脇の樹に手をかけた。とたん、幹がリーフィの手を拒絶して、茶の樹皮を白く変色させた。
「ふぅん…」
「何を、探しにきた?」
「僕の大事なもの。一番大事な…かつて失ったもの」
「そのようなものを、何故手離した?」
「奪われたんだ」
 リーフィが両手を広げた。天を見上げた。何も無い、澄んだ空がそこにある。
 リーフィに広げた手の中に、上空の景色全てが、樹々の梢も、雲一つない空も、納まったような錯角を見る。
「この、果てしない森のために」
 だから僕は、この森を許さない。
 リーフィが告げた。エルムはその言葉に、後ずさった。この人間に、興味すら覚えたのに。何かよくないものが近付いてくると、本能が知らせた。


 …ず…しん…ず…しん…ず…しん…

 樹々がざわめく。森が揺らぐ。大地を響かせて姿を現したのは、一頭の真白き獣。純白の毛に身を包み、背から尾へと、たてがみが伸びる。長い毛が威圧感をかもし出し、威厳を湛えた深緑の双眸が相手を求め、鋭く光る。
「森の、守護者…?」
 エルムはこれで二度目だった。森の守護者にして聖獣、巨大な肉体を持つ動物に会うのは。
「イスペリカ…?」
 ぴく…と、聖獣の耳が動いた。リーフィは再びその名を口にし、聖獣に近付いた。
 全身から風を起こす、この森の守護者。
 その力には抗えない。
「だめだ、リーフィ! 近付いてはいけない!」
 エルムは叫ぶ。だが、自ら手を差し伸べることはない。その獣の恐ろしさは、森の番人たるエルフが、一番よく理解していた。





 失うものの大きさに気付かない。
 自分がどれ程小さいのか覚えていない。
 ああ、自分は、手など届かぬ場所へ、行きたいと思っている。




 エルムは首を振る。
 だめだ、と。
 その聖獣に触れてはいけない、と。
 何処かで見たことがあった。懐かしく、優しい感覚。
 覚えている。自分はまだ覚えている。決して忘れたわけでは、ないのだから。






「妹?」

「そう。貴方の、妹。たった一人の。双子の片割れよ」
「今、何処に?」
「あの子は」
「今、何処にいるんだ?」
「遠い所。ほんの少しだけ、遠い場所」
「ねぇ、それは何処?」
「まだ、言えないわ」
「教えてよ。ねぇ、それは何処? 何処にいるの?」

「貴方の妹は、今」




「ねぇ、イスペリカは何処にいるの?」








 失われたものの大きさに気付く
 自分がどれだけ半端な存在だったのかを、今になって思い出す




 目の前にそびえるような巨大な獣。真白き毛に包まれた聖獣。
 けれどそれは、リーフィにとっては、この森の守護者などではなく、妹。たった一人の、双子の片割れ。幼い頃、失うものの大きさに気付かぬ程過去、この果てしない森のために奪われた、一番大事なもの。
「イスペリカ。ねぇ、僕がわかる?」
 ぴく…と、その耳が反応を示す。
 樹々が揺れる。全身から風を起こす聖獣が、鼓動を乱すのを、敏感に感じとる。樹々が揺れる。共鳴する。ずれていく風の音に合わせるように、さわさわと葉を擦る。
「だめだ…このままでは、いけない…」
 エルムは踵を返した。エルフの長に伝えなくてはいけない、この事態を。
 しかしそれは叶わなかった。
「待て、エルム」
 リーフィの声が、凛と響く。振り向けば視線が合い、緑の双眸の前に体が動かなくなる。呼吸が苦しい。手足が冷やりとする。
「言ったはず。僕は、森を許さない」
 君もその森の一部だと、リーフィは告げた。出会った時、驚く程幼く見えた顔立ちは、今はただ凍るような輝きを瞳にともすだけ。
 このままでは、いけない…。エルムの本能が、そう知らせた。





 星の見えぬ不気味な夜。月明かりすら頼れぬ闇。

「この子をどうするのです」
「媒体にするのだ」
「世界の果てを覆うための?」
「そうだ」
「でも、どうやって…」
「森を。そう、森を造らせるのだ。樹々が生え、草木が茂り、生き物が暮らすようになれば、放っておいても森は成長する」
「この子はどうなるのです」
「守護者として、永遠に君臨させるのだ」
「永遠に、ですか」
「そう、永遠にだ。そして我らは、魔獣に怯えなくて済む。そう、永遠にだ」
「でも私は。この子を失いたくない」
「失うわけではない」
「せめて」
「何だ?」
「せめて半分、残してはくださいませんか?」




 リーフィは王子だった。魔法王国の名を冠する強大な、支配者の国レラルドの、末に生まれた第三王子だった。それにも関わらず王位継承権を持たぬ理由は、国王から嫌われていたからだった。
 唯一愛してくれた母は、早くに亡くなり、そして今、忌み嫌った国王もまた、病に倒れた。
 チャンスだ。
 リーフィは思った。失った片割れを、奪い返す絶好の。
 遠い昔、やっと物心ついた頃、幾度となく聞かされた話。たった一人の双子の妹が、森に暮らしている話。母、王妃がそっと涙を溜めて、自らを慰めるかのように話した話。その話を、リーフィは無意識のうちに覚えていた。
 国王の倒れたその日、リーフィは失われた半分を取り戻さんと、王城を抜け出した。そして森に、辿り着いた。





 風音に混ざり、耳障りな言葉が重なる。聖獣の胸元で、リーフィはその声の主を、エルムを睨んだ。
 エルムは歌っていた。呪歌と呼ばれる呪いの歌を。エルフの長から教わった、ただ一つの特技。それが呪歌。他人も自分も巻き込んで、ともに滅びへと向かう呪い。
 突き刺さるような、痛み。全身を襲う、激しい疲労と、鋭利な苦痛。リーフィは絶えきれなくなって、叫んだ。
「僕は森を、許さない!」
 まがりなりにもレラルドの、魔法王国の第三王子。リーフィは王家の直系の血を引く者だから、より巨大な、より高度な魔法を扱える。それでもリーフィが使ったのは、一番初歩の段階の炎の魔法。
 それを、力の限り最大限に、放出した。持てる力全て。
 一番強く燃え盛るのは、生命力。
「いけない…このままでは森が。全て焼けてしまう」
 そんなことをしては魔獣が。
「魔獣が侵入してしまう…」
 ぴく…と、耳が動いた。森の守護者たらんことを位置付けられたイスペリカは、遠い昔命ぜられた掟を忘れることは出来なかった。

 ―――この森を守ることが、守護者たる私の役目…。

 ───世界の果てを覆い尽くす事が、私のすべきこと…。

 全身から風を起こす、この森の守護者。
 その力には抗えない。
 その定めには抗えない。

 ───私の望みは、ただ、魔獣の侵入を防ぐことにある…。

 イスペリカは、鳴いた。高く遠く、何処までも響くように。
 そしてその背に、二対の翼を広げた。計四枚の、空を覆うかのような大きな翼が立ち上がり、イスペリカは舞い上がった。
「イスペリカ! 僕を! 僕をまた、置き去りにするの?」
「来い、リーフィ。私の兄よ」
 吠えた声のままに、リーフィの体が浮いた。宙を昇り、イスペリカの背に着いた。
「ありがとう、イスペリカ。もう…手離さない」
「行くぞ」
 果てへ。この森の、そして世界の。
 白く赤く橙色に、炎上する森の上を飛ぶ。熱さはもう感じない。ただ、エルムのかけた呪いが、解けない。
 体が重い。




 私はあと少しだけ、生きたかった。
 森の外へ行って、人間の世界を見たかった。
 リーフィ。私はお前に、初めて人間に、興味を覚えたのに。

 エルムの意識が薄れていった。やがてその体は、燃え盛る森に飲み込まれた。



 体が重い。果ては見えない。イスペリカの高度が、徐々に下がっていく。
「しっかりするんだ、イスペリカ!」
「私は」
「イスペリカ?」
「私はもう」
 そのとき曇りの無いガラスが割れるように。イスペリカの純白の体躯が、砕け散る錯角を見る。
「イスペリカ!」
「私はもう…守護者ではないから」
 二人の体が、急降下していく。
「風の流れる声よ響け!」
 リーフィの導いた魔法が、二人を包む。ゆっくりと大地へ。降りた先は炎の中。燃え盛るのはリーフィの生命力。
「私は」
「イスペリカ! しっかりして、イスペリカ!」
「私はもう守護者じゃない。放棄したの、永遠を。だからもう」
 時間が止まる。イスペリカの中の、時間ときが。
「イスペリカ!」
 どんな力を持ってしても、リーフィには動かす事の出来ない時間が、イスペリカの生き続ける原動力が、止まる。巨大な肉体が砂のようになっていき、リーフィを埋もれさせる。

 それでもかまわない。

 イスペリカ。
 僕は、君なしでは。





 失われたものの大きさに気付く
 自分がどれだけ小さな…




 僕は君なしでは。
 せっかく一緒になれたのに。
 遠い昔、別れ別れになった二人の兄妹。
 双子などではなく、互いに半分の人間。
 やっと一つになれたのに。
 君なしでは、僕は。
 もう、一人になっても意味がない。





 失われたものの大きさに気付く
 自分がどれだけ半端な存在だったのか、今になって思い出す
 そう自分も君も、こんなにも脆く崩れやすかったのに、
 ただ一人になりたくて君を探した。
 その君は、永遠を放棄した。でもまた新たな永遠を結べばいい。

 僕と、

 ずっと一緒にいればいい。
 だから僕も君の元へ、向かおう。
 失われた断片ものの大きさを、忘れる事が出来るように。

 





まもなく世界は崩壊する。森の滅びと魔獣の侵入によって。






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