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ラノ
Ca

イフィアル神殿
renta Ranoyphial


「聞きたいことがあるわ」
 暗がりにも怯むことのないその青い眼差しは、ルディオを真直ぐ射すくめる。見てはいけないものに、つい見とれてしまうように。




 カディアと名乗った助祭は、ルディオを夜の見回りに連れ出した。
 羽織った白の上衣が、宵闇の風によく映えた。
「寒くない?」
 ルディオは首を横に振る。
 急ぎ足で、カディアは歩く。手元の明りがちらちらと揺れ、正面の道を照らし出す。ルディオは明りが示す道を追って、その若い助祭のすぐ横を付いてゆく。
 急に目の前が開けた。家々が終わり、広場に出る。
「聞きたいことがあるわ」
 カディアがふわりと振り返る。優雅な仕種につい見とれ、突き付けられたその強い眼差しに、ルディオは視線が外せなくなる。
「どこに住んでいたの? 御両親は? 御兄弟は?」
「俺はシリウスの……」
 魔術師院の出身だと言いかけて、はたとルディオは口をつぐんだ。リゲル大陸で世話になった助祭の台詞が、脳裏に。
 ――私達聖職者は、魔術師という存在を忌み嫌っているんだ
(俺が何をした?)
 魔術師だと名乗っただけで、助祭はそれまでの優しい笑みを捨てた。露骨に嫌そうな顔を、した。
「うん、シリウスの?」
「あ……」
 エウディン助祭の形相が蘇る。目の前に立つこの人も、その綺麗な顔を歪めて、自分を拒絶するのだろうか。
 見たく、なかった。そんな顔は。
「俺は、シリウスのレグルスってとこから来たんだ。家族のことはわからない」
「亡くされたの?」
「……覚えてないんだ」
「そう」
 視線を逸らしたカディアを、はっとして、ルディオは見た。
「……ラースを、俺の知り合いを、なんで知ってるんですか?」
「そのことだけど、残念、人違いのようね。あなたがシリウスから来たのなら」
 話を終わらせ、カディアが歩き出す。急にその距離が広がったような、錯覚。
 ――――置いていかれる
 何かが心を突き動かす。
(待って……待って!)
 ルディオは、叫んでいた。
「あなたは、誰だ?」
(俺のことを、知っている?)






□□
 石を積み、木材を組んだ家々を通り過ぎてゆく。駆けてゆく子どもの青い肩掛けが風を拾ってたなびく。果物を腕いっぱいに抱えた母親が、その子どもを追いざま、すれ違ってゆく。赤の紋様が美しい聖職衣をまとって、カディアは神殿へと続く石敷を下っていった。癖のある茶色い髪がその背で揺れている。腕には二重の鐶。助祭の地位を表すそれを、19という若さで授かるガイアの神官だ。
 カディアに続くように、やはりガイア神官のイエリア、空竜エアドラゴンの子レオンに、ダークエルフのヴァイル、魔術師のローブを羽織るルディオが歩いてゆく。ゆるやかな下り坂の先には、こじんまりした神殿があった。
「見える? あれが聖ラノイフィアル」
「アンタレスの神殿と、だいぶ印象が違います」
「そうね、きっと中も違うはずよ」
 木枠で出来た大小の丸い窓が、遠目にも目立つ。壁の石のくすんだ白さが柔らかい印象を与えている。街のほぼ中央、けれど静かな風の吹く、やや低くなった土地に、5人は辿り着いた。聖カレンタラノイフィアル神殿が、その門扉を開けて待っていた。


「ただいま戻りました」
「おかえり、カディア。……そちらの方は、お客様?」
「はい」
 カディアが短く返した肯定に、それ以上の問いかけは無い。レオンの異質さにも、姿を消したダークエルフにも、きっとその高位の聖職者は気付いたはずだった。だが語られるまで聞くつもりはないのだろう、それは揺るがない信頼の証だ。
 抱えていた荷物をテーブルのひとつに置いて、赤い聖職衣をまとったその女性に軽く目礼をしてから、カディアは一行を奥へと導く。
「今の方はロレンタ様。この神殿を預かっていらっしゃいます」
「高司祭ディーンさま?」
「ええ」
 イエリアの問いかけにカディアは軽くうなずきながら、一行を振り返る。
「部屋、二階でいいかしら?」
「二階以外で!」
「一階は暗いわよ」
 言いながら、カディアは階段の裏側へと回った。小さな風が吹いてきたことにレオンは気付く。細い通路を抜けた先に、空き部屋はあった。







 ずっと、緊張の連続だった。心休める場所なんてなかった。
 やっと、神殿に帰ってきた。拒絶するばかりの荘厳なそれでなしに、迎え入れてくれるそこに。
 壁に頬を寄せる。冷たい石の壁は、故郷シェリアクの我が家を思い起こさせて、…そして少しだけ、ほっとさせてくれる。
「帰ってきた……」
 そんな気分にさせてくれる。イエリアはそっと目を閉じた。向かいのパン屋の匂いを嗅いだ気さえした。
 左手で触れた右の腕には、一重の鐶。浴礼を受けた者の証だ。見聞を広め、人の心を知り、自分を開くことができたら、鐶は一つ増え、助祭となる。まだ遠い道のりだ。
 けれど、カディアは助祭の証を持っている。年齢は一つか、二つくらいしか違わないはずなのに。
 あの落ち着きと揺るがない信頼は、どこから来るのだろう。
(私にも、いつか……) 
 けれどまだ、遠い道のりだ。







 陽射しの入りにくい一階の、小さな一室が助祭の鐶を抱くカディアの部屋だった。
 南ノトリス側の丸い窓にはめ込まれたガラスの向こうに、陽は見えない。もうだいぶ上ってしまっている。
 カディアは椅子を引き寄せ、窓枠にもたれ掛かった。外の景色が視野に入る。気が滅入る。
(……駄目よカディア。いまさら、何を恨むの? 誰も悪くない、あの子に罪はない……)
 わかって、いたはずだった。
 いつかこうなることだけは。








□□
 カディアは足を速めた。手の中の明りがゆらゆら揺れる。置いていかれないように、ルディオもまた足を速める。
「助祭? どうしたのさ?」
「静かに」
 カディアはそっと明りを吹き消す。暗闇が訪れて。ルディオはつい歩みを止めた。
「待って! 見えないよ!」
「声を立てるな!」
 カディアは手にしていた照灯を放った。
「伏せて……!」
 受け身を、とっさにルディオはとって地面に転がる。すぐ目の脇を、何かが通り過ぎてゆく。夜空に浮かんだ白い月が禍々しいのは、きっと思い込みだけではない。
 影が、在る。巨大なシルエットがそこに。透けて見える月がちょうど瞳のようにゆらめき、影が翼を広げた。
 竜だ。








□□
 割り当てられたのは、小さな部屋だった。
「悪いけれど、イエリア、他の子達と同じ部屋に泊まってもらえる?」
「はい」
 イエリアが通されたのは、誰もいない部屋だった。
「もうすぐ帰ると思うわ」
 貴女のベッドはこれ、と示すと、カディアはすぐに出て行った。イエリアは冷たい壁に頬を寄せ、しばしその心地よさに浸る。
 ずっと、緊張の連続だった。


 こつ、こつこつ。
「入るよ?」
 ノックの音にはっとして、イエリアは目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていた。
「どうぞ」
 返事より早くドアが開いて、入ってきたのは、女の子が二人。明るい色の長い髪の子と、大人しめな、短かめの髪の子だ。二人とも、濃さこそ違えど瞳の色は赤い。イエリアの瞳も赤だ。その色は、大地の女神ガイアを象徴する。
「初めましてね、私はグレリオよ。グレリオ・ランローザ・リ・ガイア」
 やわらかそうな質感の、肩までの波打つ髪を持つほうが、にかーと笑う。悪戯っ子が浮かべるような無邪気で天の邪鬼な笑顔だ。その横で、濃いめの短い髪の子が微笑む。
「私はテーレ。グレリオの姉をやっています」
 身長はほぼ同じくらい、けれど二人の顔だちは、全く似ていなかった。きっと性格も全然ちがう姉妹なのだろう。
「私はイエリア。イエリア・セフェナージェ・レン・ガイア」
「ね、イエリア、まだ神殿の中あんまり知らないでしょう?」
 姉のテーレが言い、グレリオはイエリアの腕をとる。
「テーレは案内したいだけなんだよ」
「でも、見たいな」
「じゃあ行きましょう」
 三人は部屋を出た。




 二人に案内されるままに、イエリアは神殿の中を歩き回った。一階はカディアや姉妹の部屋と、神殿を預かるロレンタ様の部屋があり、二階には他人を泊めるための空き部屋がいくつか用意されていた。祈りの間は一階に、私室以外の生活空間は主に二階に、あった。
「綺麗に分れているのね」
 祈りの間へと続く廊下の手前、きっちりしまったドアを見上げてイエリアが言う。ドアを開ければ廊下が、その先に祈りの間があるという。けれどドアには向こう側から鍵がかけられ、開けることはできない。
「ほんとは、神殿に人が住むべきじゃないの」
 可愛らしい声で、グレリオが言う。
「でも、他に場所が無いでしょう? だから、ロレンタ様はわかってくださっているから、私達ここに住んでいるのよ」
 テーレが付け足す。
 祈りの間は、更に治療のための部屋に続いているという。表側の入り口に一番近い部屋だ。神殿には、一日10人から20人ほどの人が、治療を求めて訪れる。軽傷の者もいれば、重症の者もいる。心の病を癒してもらいに来る人もいる。ただ話しがしたくて、来る人もいる。ロレンタ高司祭は自身の祈りや公務の合間に、そうした者達の相手をしているのだ。大きく迂回して、三人はその部屋の前に出た。
「治療を手伝えるのは助祭さまだけ。ときに命にかかわるから、って」
「私達まだ浴礼を受けてないの。だから二人ともこの部屋には入れないわ。助祭さまに叱られちゃう」
「怖い人ね」
 初めて会ったときのきつい眼差しを思い出して、イエリアは言った。
「そう? 助祭さまは優しい人だよ」
 グレリオはきょとんとして答えた。そしてまた、あの天の邪鬼な可愛らしい笑顔を浮かべる。鈴の声が言う。
「イエリアならそのうち入れてもらえるかもね」
 浴礼を受けた者だけが持つ、金色の鐶。イエリアの右腕で聖職者の証が少しだけ重たくなった。








□□
「大地の女神ガイアよ。我に力与えたまえ。彷徨える禍根の竜魂を、永劫の夢へと誘いたまえ」
 カディアの声が飛ぶ。詠唱の終わりに、光が広がり、影が消えてゆく。
 夜空は元の青みを取り戻し、ルディオは起き上がった。
「なに、今の?」
「見ての通り、竜よ」
「でも、透けていた」
 竜なら、本物を見たことがある。例えばレオン。例えば“死の砂漠”で出会った砂の竜。どちらも、透けてなどいない。ルディオはしかしそのことには触れずに、カディアの声に耳を傾ける。
「2週間くらい前からかしら。おかしいの、竜がたくさん出るようになって……ひどい危害は出て無いのだけど、みんな不安がって、参ってるわ」
「それは、この辺だけ?」
「いいえ、カーフ島全域よ。周辺の海もそう。昨日も商船が襲われたって……」
「昨日?」
 ブルー・フォックス号から逃げ出したのも、昨日だ。もしもその襲われた商船、というのがあの船のことを指すならば。
(じゃあ、あの黒かったのは、竜?)
 船を襲った黒い影に覆われた空を、しきりに見上げていたレオン。彼は、人の姿こそしているが、“空竜の島”ベテルギウスの竜だ。
(そうか、だからレオンが反応したのか)
 ルディオが納得している間に、カディアは放り投げた照灯を拾い上げ、灯を点した。
「帰りましょう、今日はここまで」
 道が明るく照らされる。








□□
 透き通った黒い影がある。
 それは長い首をもたげ、幾つもの仲間を見渡す。
 それぞれにうなずき合い、咆哮を交わす。しかし声は無い。
 一対の翼を広げ、はばたくシルエット。
 彼らは再び翔び立とうと、虚空を見据えた。








□□
 カディアから半ば取り上げるようにして受け取った灯りを手に、ルディオとレオン、それにヴァイルは夜の見回りに出ていた。冷たい風が吹いてゆく。ヴァイルにとって心地よい風が、レオンにとってはあまり思わしくない風が、通りを抜けてゆく。先頭をゆくルディオは幾度となく振り返り、あとに続く少年の存在を確かめる。
 レオンは、黒みを帯びた銀づくりのペンダントを首からさげていた。イエリアと出会ったシェリアクの町の店で買ったものだ。
 そのレオンが片手に何かを握りしめているのに、ルディオは気付いた。
「何持ってんの?」
「きのう、海で拾ったんだ」
 開かれた竜の子レオンの手中には、紫色にくすんだ石がある。
「これは、何の石?」
「!」
 レオンは答えずに、はっとしたように石を握りしめた。
 突如、影が落ちた。
 辺りを覆いつくす、黒い闇。船を襲った、昨日襲ってきた影だと気付いて、ルディオはとっさに身構えて、そして更に気付いた。現れた、竜の影と思しきものは周囲を漂っているだけで、襲ってこようとはしない。
(レオンがいるからか?)
 人の姿をまとっていても、竜には竜の匂いがわかる。水色の髪と瞳の子どもが、鱗の色こそ違っても同胞であることを知る影達は、静かに待つ。レオンは相手の意識にそっと、触れた。
 感じるままに、竜の子は、首から下げていた、竜を象った銀のペンダントを手のひらに載せた。
 銀の竜が、作り物でしかないそれが、急に膨らみ巨大化する。
 瞬く間に、実体を持った竜が、現れた。
 ただ一頭現れた、黒ずんだ竜は、レオンを見、悲しみの吐息を洩らす。
『我々は敗れたのだ。我々は故郷を失い、同胞を失った。そして意識すら失おうとしている』
 それはルディオには意味のない旋律だ。人のそれとは全く異なる、竜族の言葉。エルフのヴァイルに理解はできても、話すことの困難な音韻。
『我々の記憶を返せ。お前が手にし欠片は我らが瞳。我々が見し現実を閉じ込めしもの。そう、我らが記憶なり』
「渡さない、これは僕が預かるものだ。僕がすべてを忘れさせない、だから」
『我らが島は最早ひとつにあらず。かつての広大なる草原は分かたれ、人間たちが住み着いた。我々の還るべきは何処いずこか。此処は我々をぞ受け入れざる。何故なにゆえに……。我々は……我々は黒曜の草原竜。かつて此が地に営みを持たん……』
「そう、過去のことだ、すべて。あなたがた草原竜は、もはや存在しない。知るんだ、自らが滅んだことを」
『お前がそれを諭すのか、裏切りの飛翔竜!』
 咆哮が、耳をつんざくような悲鳴が谺す。
『失せろ!』
 レオンもまた、吼え返す。ヴァイルは構えた。けれど、竜は消えた。
『そう、我々は滅びたり。信ずる同胞に裏切られたり。飛翔竜よ、ただ一種逃げ延びた者よ。我々は忘れまい。我らが記憶が忘れさせまい。過去に起こりし惨劇の有り様を』
 そう言い残して。あたりに舞っていたすべての竜の影とともに。
「レオン!」
「黙ってて」
 手の中の石が、燃えていた。紫がかった色が、赤く輝きを増している。ルディオは痛みに堪えて顔をしかめるレオンの腕を掴み、ヴァイルを見やる。エルフは心得たように口笛を鳴らす。
[ナイアードよ!]
 レオンの手が、真っ赤にただれている。火傷のように。現れた水の精霊が、レオンの手を包み込む。レオンは、声を低め冷たく言い放つ。
「竜の炎だ。精霊なんかじゃ冷ませない」
(この、怒りの劫火は……)
 かたん、という音とともに落ちてきたのは、銀づくりのペンダント。紫の瞳の、おそらく草原竜をモチーフにした銀の竜。レオンは無傷のほうの手で拾い上げると、再びそれを首にかけた。手の中は、ただただ熱い。
「戻ろう、ルディオ、ヴァイル。大丈夫……此処にはもう、彼らは来ない」
「レオン?」
「……わかった。そうしよう」
 3人は神殿へと続く道を歩きだした。ゆるやかな下り坂は、ただただ無言が駆け抜ける。








□□
 割り当てられたのは、小さな部屋だった。レオンもヴァイルも、外に出ている。入れ代わりに夜風を浴びにいったのだ。
「シリウス……か」
 カディアに問われたせいで、ルディオは久しぶりに魔術師院のことを思い出していた。自分を送りだしたセファル導師は、世話をかけたフェスト導師は、今頃何をしているのだろう?
 灰色のマントを止める金具には、青い色の石がはめ込まれている。魔術師達だけが持つ、「輝石」と呼ばれるものだ。
 出立のときに渡されたそれは、「言葉の石」の名を持つ。同じものを持つ相手と、たとえ遠くとも意思疎通ができるという。だが一番話を聞きたい相手であるセファルの名を、無闇に唱えてはいけないと本人自らに言われている。
 ふと、エニィのことを思い出していた。セファル・ホーシズの秘密を教えてくれた、黒装束の魔術師だ。
(エニィもこれ持ってるんだろうな)
エ…
 名を唱えかけ、やめた。何を話すというのだろう。
(案外、どこかで見守っていたりして……まさかな)
 エニィに預けられた銀の指輪を確かめて、ルディオは横になった。
(明日は助祭の代わりに見回りにゆこう)
 眠気がどっと押し寄せる。








□□
 3人が聖ラノイフィアル神殿に戻ったとき、表の入り口に明かりが灯っていた。赤い聖職衣をまとった女性が、待っていた。
「助祭! 起きてたんですか」
「あなた達だったのね」
 カディアは、怒っているようだった。
 ああ…、とルディオは気付いた。
「ついて、来てたんだ?」
 せっかく交代したというのに、その若い助祭は、結局一睡もせずにいたのだ。
「心配だったから。…でも見てしまった。あの竜とレオンが話すところ。言葉なんか知らなくとも、意味くらいなんとなくわかるのよ?」
 見えないはずのダークエルフも含めて、カディアはそれぞれの顔をじっと見つめた。
「何故はじめから言わなかったの? 黒い竜が現れるようになったのは、レオン、あなたに関係があるのでしょう? ……お願いがあるの。ひどい言い方だと自分でも思う……早くこの島を離れて」
「助祭!」
「知ってる? 聖職者は、全然尊くなんかないのよ。誰かを救うために、別の誰かを切り捨てて、そうやって犠牲にした命に泣きながら生きてゆくの」
 カディアの眼差しは、
「10年前、私はここに来た。何もかも失って。もう、失うのは嫌よ」
 ただの女性のそれだった。冷たい風が、低くなった土地をかすめる。遠くで獣の吠える声を運んで、消えてく。
「最近また魔獣が増えはじめているわ、この辺ではまだ見かけないけれど、いつか姿を表すでしょう。そうなったら人々は、10年前遠い街で起きた惨劇が、この街で繰り返されることを危惧しはじめるでしょうね」
 風は冷たい。カディアの声は、ただただ静かに。
「人は、脆いわ。不安や、憎しみにとても弱いの。だから私は、せめて怯えずに日々を過ごせる平穏な時と大地を守りたいの」
 レオンは、ただ幸せな生を享受するだけだった、故郷ベテルギウスを思い出していた。
 閉じこもっていては、駄目だ。悲しみを押し込め、憎しみに目を瞑っていては。
 でもそれを、自分が言うべきではないと、わかっていた。
「お願い。どうかこの島を離れて」
「……わかった」
「レオン!」
「僕らは、結局進むしかないんだ」
 レオンの目は、いつになく厳しい。
「明日の朝には、発つ」
 カディアは小さく、ありがとう、とささやいた。3人は敷き居をまたぎ、扉は閉じられた。








 わかって、いたはずだった。
 いつかこうなることだけは。
(……駄目よカディア。いまさら、何を恨むの? 誰も悪くない、あの子に罪はない…のに……)
 ――でも、恨まずにはいられない。

 ――誰か、希望をください

 つぶやきは、窓にあたって砕け散る。
 神がそれだけは決してくれないことを、カディアは知っている。









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