奇 跡 の 柱 輝 石 の 柱第 7 話「 真 の 名 」
――――記 憶 の 中 に 喚 ば う 声
嘘と
Te置き手紙
ll a lie, leave a note
ディフダは沙漠に近い街だ。大陸の北端を広域に渡って占める砂沙漠は、地図上にその名を記されながらも、人々に別称で呼ばれている、“死の砂漠”と。人の住めない沙漠に隣接する街ディフダから真直ぐ西へ向かえば、およそ七日で港に着く。街の名は、カファルジドマ。
大陸の中央を走るアピュス山脈を越えた先にある港町アルタイルや、大陸に最も近い島カーフへと渡る船が今日も港に訪れる。
今日は、レダの月1日。月に4〜6回やってくる大型商船が積み荷をいっぱいにし出航する日だ。
色も音も賑わう大通りを避けながら、エウディン助祭は歩いていった。その後ろに続くのは、魔術師の卵ルディオに、聖職者の卵イエリア、それから竜の子レオンに、人には見えない姿をとるダークエルフのヴァイル。列の最後を、セトリウエ司祭が歩いていく。
助祭や司祭やイエリアの、あでやかな赤の聖職衣は、色とりどりの人々の中にあっても遜色がない。それは、大地の女神の象徴であり、天の主神を導く符号であった。この大陸で、もっとも神に近い色。
ルディオは魔術師のローブの上に、薄い灰色の布みたいなローブを羽織っていた。柔らかで、丈夫で、軽い。ルディオにはきつすぎるアンタレスの陽射しも十分に遮ってくれる。もっとも、ここヴェガの一帯は王都ほどには陽射しはきつくなかったけれども。
「あとちょっとだからな!」
エウディン助祭の声が飛ぶ。大声を出さないと、周囲の喧噪に掻き消されてしまう。
やがてエウディンはひとつの扉を押す。重たそうな木製の扉を開くと、まぶしい光が飛び込んでくる。陽射しの強いアンタレスでは考えられない、天井から光を取り入れた部屋が現れた。石造りの壁に床。天井の真中にぽっかりと窓が、その真下の床には四角い窪みがある。雨が降れば窪みに水が溜まり、屋外へと排水される仕組みだ。
「リース! リース・ノージェフィール!」
エウディンが叫ぶと、奥から誰かが現れた。
「そんな大声出さなくったって聞こえてるよ」
「やあ、久しぶりだな!」
「ああ、もっと頻繁に来てくれたっていいのに。……そちらが今回の?」
奥から現れた人物は、エウディン助祭の後ろに控えたレオン達に気付いたようだった。
「ああ。全部で5人。うち女性2人でお願いするよ」
姿を消したヴァイルは数に入らない。レオン、ルディオ、イエリア、セトリウエ、自分、と指折り数えてエウディンは答えた。
「あいにく一階は満員だ。二階でいいか?」
「十分」
「ではこちらへ、どうぞお客さま」
鍵束をじゃらりと鳴らすと、リースはかしこまって一行を奥へと案内した。
□□
港は、街中に比べ意外にあっさりとしていた。というよりも、大型商船の出航の準備はすべて整い、静かに時間を待っているかのようだった。
潮風が吹き抜ける。少し長くなった前髪をかきあげて、ルディオは港を見やった。大きさも種類もさまざまな船達がそこにはひしめいている。
「どれに乗るの?」
「ああ、船はまだ手配してないんだ。今いい船探してるとこだよ」
ふうん、とうなずきながらルディオは船を目で追っていった。横っ腹にはさまざまに飾る文字。ただ彫っただけのもあれば、丁寧に描かれたものもある。どの船もみな、かなりの波に洗われ相当に年季の入った色合いをしている。
ふと目に止まったのは、やたら傷の多い船。丁寧に塗り直してあって、遠目にはわからない。飾りけのない文字はどこか荒々しい。
「ブルー…フォ…ックス?」
「あれはだめだよ」
さらりと答え、それより腹ごしらえだ、とエウディンは宣言した。
司祭が諦めたような顔をしたのを、イエリアは見逃さなかった。ちょうど司祭と同じことを心に抱いたからだ。
空腹を訴える助祭に導かれるまま一行がふらりと入った店は、やかましい声と音に満たされていた。
「こんなところ入るの?」
「賑わう店ほど美味しいってね」
セトリウエの否定文をあっさり否定し返して、エウディンは陽気に入っていく。ルディオはレオンとヴァイルが明らかに嫌そうな素振りをしたのに気付いたが、つられて中へと踏み入れる。
思ったよりも狭い空間に、思った以上に人が詰まっていた。
それでいて、空気は少しもむっとしない。ただ潮風が優雅に吹き抜けてゆく。
開け放された窓からは、港の様子が見てとれた。エウディン助祭は器用に椅子を二つ拾い上げ、窓際の席を確保する。ヴァイルは風に当たろうと、窓枠に腰掛けた。自然界の生を抱くダークエルフは、潮風さえも心地よさそうに目を瞑る。
食事など要らなかった。ただ澄んだ光と、綺麗な水と、人の香の混ざらない風があれば、エルフという妖精は生き長らえることができるのだ。
喧噪の中に、三人の聖職者は明らかに不釣り合いだった。だが自分ではそうと思っていないのか、エウディンに気まずさはひとかけらも見られない。むしろ居心地の悪さを感じていたのは、視線の冷戦下に同席してしまったルディオだった。
司祭はきっとわかってはいるんだろう、と思いながらもフォローせずにはいられない。
「こういう店にわざと入ったのは、情報を集めるためなんでしょ?」
「もちろん」
けれど誰に声をかけるでもなく、エウディン助祭は食べ物を口に運ぶ。
と、新しい料理を運んできた給仕人が、皿を置くなり言った。見上げれば逞しい体つきだ。
「聖職者がこんなとこ来るなんて珍しいな」
「ああ、この街の者じゃないんだ。道に迷ったらいい匂いがしてきたんでね」
(見え透いた嘘を。)
セトリウエは思ったが、逞しい給仕人もそう思ったらしい。けれどあえて否定しないのが、お客さまに対する礼儀ってもんだ、とでも言わんばかりに、給仕人は助祭の話に乗った。
「へえ、どっから来たんだ?」
「アルシャインだよ」
それは本当だ。
「あん? アルシャインだと? 陸路で来たんだよな? それはまた遠くから遥々……」
「あ、いや、アルタイルの三大港じゃなくて、アンタレス国内にあるちっちゃな街のほうのアルシャイン」
それも本当なのだが、いまいち嘘っぽく聞こえるあたりが悲しい。だが自身が仕える神殿を、それがある街の名を責めるほど不信心でもなかった助祭は、ただちょっと困った顔をしてみせて、
「それで、三大港のほうのタラセドに用事があるんだ。乗せてくれる船、探してるんだけど」
行くのはカーフ島のほうじゃないの?、とは、同席した誰も口にしなかった。
助祭が嘘を吐くのは、誰かを守るためだとみんな知っていた。警戒しなければならないのだと、心の中でだけ思う。
「山越えは危険だって聞いたからな」
「だが、海だって楽じゃあないぜ」
「ああ、だからいい腕前の船乗りを探してる」
エウディンの一言は、給仕人の心を捕らえたようだった。あとでまた来な、と、言い残して給仕人は別の席に料理を運びに戻っていく。
その様子を、遠くの席から見ていた者達がいた。
普段と同じように入り口の扉が開いたとき、何気なく目をやった一人は、聖職者の人数に興味を惹かれた。服装から察するに三人。この街にも神殿はある。この街にも何人もの聖職者が暮らしている。そこここで見かけるから、別に珍しいものではない。だが買い出しのための遠出にしては、多い。何か重要なものでも運ぶ途中なのか。
窓際の席に座ったとき、灰色の外衣をはためかせた少年の服の裾が、風に煽られめくれあがった。
ほんの一瞬だった。
しかしそれを見逃さない者達では、ない。少年の裾の裏で、何かが煌めいた。輝きから察するに、純度の高い貴金属、おそらく銀、だ。それもどこかで見たような。
「……やるか?」
「やろうぜ」
問いも応えも短かった。視線だけで計画が立てられ、承認される。喧噪に不釣り合いな一行が席を立ったとき、仲間の一人も立ち上がった。気付かれてはいない。だから宿泊場所を見つけるのも容易かった。
□□
リース・ノージェフィールが「二階でいいか」と聞いたわけが、ルディオにはわかった気がした。
頑丈な石の壁で覆われ窓の少ない一階と違って、空に、つまり陽に近いゆえに風通しよく造られた二階は、つまるところ外からの騒音も無条件に取込んでしまう。一階が満員なのが、今更ながらに口惜しい。
「うるさいなあ!」
窓から叫んだところで、騒々しさが止むはずもない。ルディオはなるべく壁のほうへと身を寄せた。
ヴァイルは、どちらかというと自分のために、精霊の名を喚ぶ。
[シルフよ! そこに居てくれ。騒がしい風にさらされることなきよう]
目に見えない風が吹く。風の精霊が現れ、窓辺をゆったりと舞う。音が止む。シルフが、外から流れ込む音の奔流をその身に受け止めているのだ。
ようやく訪れた平穏にほっと胸をなでおろし、ルディオは荷を解く。ごちゃごちゃになった荷物をまとめ直し、丁寧に仕舞う。立ち上がったとき、ことり、と何かが床に落ちた。レオンがそれに手を伸ばす。
「はい、これ」
「お、さんきゅ」
それは、指輪だ。エニィに渡された、銀づくりの。
「どうしろって言うんだろう、これ」
指にはめるには、なんだか気恥ずかしい。かと言って、他の荷物と一緒にしておけば、いつか無くしてしまうだろう。いつか、エニィが受け取りに来るかもしれないのに。
しばらく指の中で弄んだあと、ルディオはふと思いついて、隣の部屋をノックした。幸い、中にはイエリアだけがいた。
「どうしたの?」
「これ、無くさないようにしたいんだけど」
指輪を見せると、イエリアが一瞬緊張したのを、感じた。小さな聖職者が、エニィを思わしくなく考えているのは知っている。ルディオは用件だけを短く伝える。
「いいよ、じゃあ脱いで」
ルディオが魔術師のローブの上着を脱ぐ間、イエリアは自分の荷物から針と糸を見つけだす。そしてローブを裏返し、一番裾の部分に、指輪を丁寧に縫い留めた。荷物に仕舞いこんでおくほうが、よっぽど安全だとは露ほどにも思わずに。
□□
ダークエルフのヴァイルを伴って、レオンは港に続く道を下っていった。竜の本能が、渦巻く潮風に惹かれている。心地よい風に吹かれると、つい我を忘れて空に羽撃きたくなる。
はしゃぐレオンを冷ややかな眼差しで抑えるのが、同伴を申し出たヴァイルの役目だった。
くすんだ水色の長い髪が、風に弄ばれて揺れる。竜の子を細目で見やりながら、ヴァイルも海の香りを含んだ風を楽しんでいた。森に生きるエルフとて、海を見れば安堵する。そこには、同族たる海の妖精、マーメイド達が棲んでいる。まぎれもない、同胞の故郷のひとつだ。
ただ、いくら海の一部とはいえ港の中までは、マーメイド達もさすがに姿を現しに来ないだろうけれども。エルフに限らず、妖精はヒトの騒がしさを厭うのだ。
だからいるはずのないマーメイドを見ようとレオンが海面を覗き込んだとき、ヴァイルは止めればよかったのだ。
そんなことをしても無駄だ、と。
だが竜と妖精とは同じ命を抱きながら、異なる生を持つ。根本的に価値観が違う。何が無駄で何が有意義か、だからエルフのヴァイルに竜のレオンを止める理由などなかった。
異変に気付くまでは。
[飛翔竜!]
急に伸びてきた手を、払わないレオンではない。
だが数人に囲まれては歩が悪い。
竜の姿をとれば逃げ切れるかもしれなかったが、騒ぎになるのは確実だ。レオンは一瞬、迷った。
[シルフよ!]
ヴァイルが叫ぶ。その声は人には聞こえない。けれど人間達は見えない何かがそこにいることを、瞬時に悟る。戦い慣れしているのだ。
見えるはずもないのに確実にヴァイルに向かって差し出された腕を、ヴァイルは飛び跳ねて避けた。
気付けばそこいら中に、人間達がいた。
(油断していた……私としたことが!)
数には、数で応戦しなければ。ヴァイルはひゅうう、と口笛を吹く。
(マーメイド達よ、気付いてくれ!)
しかし港の中にまで、同胞はやってこないのだと知っている。レオンは既に、人間の腕に抱かれていた。気を失っているのか。
たとえ人間の隙をつけても、ヴァイル一人ではその竜の子を運ぶことはできない。舌打ちを一つ。ヴァイルは水の精霊を喚び、港に盛大な水飛沫を立てる。一瞬、人間達の注意がそちらに向いた隙に、空へと舞い上がる。気配を絶つ。
レオンを抱えた人間達が、港の中の船のひとつに向かうのを、ヴァイルはじっと見守っていた。ヒトの言葉を解するダークエルフは、ヒトの文字についても、幾らか知識があった。意味こそ知らなくとも、読むことはできる。
全員が乗り込んだ船の名は、読めた。
「ブルー・フォックス」
飾りけのない文字はどこか荒々しい。
□□
イエリアに指輪を縫い付けてもらった魔術師のローブを、ルディオは着ん込だ。シリウスにいた頃は周囲は皆その格好だったのに、出発してからというもの、同じ格好の人を見た覚えがあまりない。唯一知るのはエニィ。秘密を、魔術を、この指輪をくれた人物だ。
「指輪、見えないよね」
「うん」
ひらりと一回転するルディオに、イエリアがうなずく。ルディオが部屋に戻ろうとドアノブに手をかけたとき、外開きのそれが勢いよく開かれる。
「わ!」
「あ、ごめんなさい。ね、エウディン助祭、知らないかしら?」
走ってきたらしいセトリウエ司祭が、軽く肩を上下させながらそこにいた。
「船、手配しに行きましたよ」
「そう、それって今さっきじゃないわよね」
「はい、だいぶ前です」
「そう、ありがとう」
ルディオが先に廊下に出、入れ替わりにセトリウエは部屋に入った。司祭が閉めたドアを見やって、それが内開きでなかったことを小さく感謝してから、ルディオは廊下を渡る。
部屋には、レオンもヴァイルもいなかった。
「外、好きだよなあいつら」
寒さも暑さも厭わない、自然界の命が、ちょっとだけ羨ましかった。その命が残していった精霊のおかげで、部屋の中は静まりかえっている。
閉めたドアは、すぐに開いた。
「ルディオ! 飛翔竜が!」
息せき切った、ヴァイルだ。
そんな慌てぶりは、はじめてのことだ。
「どうした?」
言いながら、ルディオは軽く身支度を整える、すぐにでも外に飛び出せるよう。ヴァイルが一人で帰ってきた、レオンの身に何かあったのだ。
「いや、すぐには行かない。いいか、落ち着いて聞け」
ヴァイルは呼吸を整えてから、単刀直入に言う。
「飛翔竜が、さらわれた。昼間見た船だ」
「は?」
一瞬ぽかんとして、ルディオは聞こえた言葉を反すうする。
「ちょ、待て、さらわれた? レオンが?」
「そうだ」
部屋を満たすしばしの沈黙は、迷いなどではなかった。いかにして救い出すべきか、を頭の中で組み立てている。
「私も、行きます」
凛とした声が響く。ドアのところには赤の聖職衣をまとった、イエリアがいた。ルディオが彼女の部屋に忘れたものを、届けに来たのだ。
「危険だよ、イエリア」
「だから逃げるの?」
「……逃げない」
危険と謳われる“死の砂漠”を、共に越えた仲だ。イエリアならば一緒でも強力な味方になりこそすれ、絶対に足手纏いにはならない。
「行こう、一緒に。レオン助けに」
夜を待つのは、いつになく焦れた。
今日に限って、明るい月夜なのが恨めしい。だが、時期を待つほどの余裕は無い。もしも船が出てしまったら、一生追い掛けることができなくなる。レオンならば竜の力で自ら逃げ切れるだろうけれども、あの竜の子が遠慮という言葉を知らないはずはなかった。
待っている、助けがくるまで、きっと。
確信を胸に、三人は港に姿を現す。司祭はもちろん、助祭にも、秘密裏に。
「なんでレオンなんだ」
たぶん、誰でもよかったはずではないと、三人とも気付いていた。昼間、この港に隣接する店で食事をしたのだ。そのときにはもう狙われていたのだ。真の狙いは、自分なのかもしれないと、思わずにはいられない。
けれど例えこれが罠でも、かかってやらねば竜の子を見捨てることになる。自分達を待っているに違いない、レオンを。
ブルー・フォックス、と刻まれた船が、三人の目の前にはある。「あれはだめだ」と助祭が言ったことが、今更になって思い出される。注意しろ、と、言われたのかもしれなかったと、今頃気付いても、遅い。
船の周囲に、人気はなかった。
月に照らされても見えることのないヴァイルが、見張りに立つ。
甲板へと続くステップを登りながら、その人気のなさにこれが罠であると確信せざるを得なかった。
罠と気付いても、引き返したりしないことまで見抜かれているのが口惜しい。
ステップを登りきり、甲板に降り立ったとき、それは来た。
「捕まえろ!」
「ちくしょう、一人だ!」
手を、降り下ろされる得物を、身をよじって寸前でかわす。イエリアは無事か、なんて考えている暇はない。
(体術の訓練、さぼんなきゃよかった!)
練習ではない、本物の殺気が辺りに満ちている。月明りがある分、周囲のすべてが見えてしまうのが恨めしい。
「動くなよ? ちっちゃいの」
イエリアが囚われた。
ルディオは手を上げた。衝撃が背を襲った。
「ルディ……っ」
(なんだよ、やっぱり罠じゃんかよ……)
意識がふっと遠くなる。
口を塞がれたイエリアは、声にならない悲鳴を上げた。ヴァイルははっとした。水面が揺れる。碇が上がっていく。
[まずいぞ!]
舳先がざぶんと海を割く。船の周囲に波が立つ。レオン達を乗せた中型商船ブルー・フォックス号は、なめらかに海面を滑り出した。
□□
船の手配を終えて部屋に戻ったエウディンは、自室にいるセトリウエの、様子のおかしさに気付いた。
「司祭? どうしたんです?」
セトリウエは、黙って一枚の紙を差し出す。
そこには癖のない綺麗な文字が並んでいた。神殿で教える、正確で美しい文字だ。
「イエリアの字だね」
「ええ。部屋を出てったきり戻らないから、こちらにいるのかと思って。そうしたら、それが、ここに」
エウディンはざっと目を通した。『探してくださっているのに失礼とは思いつつも、
自分達のことですから、船は自分達で手配しました。
長らく大変お世話になりました。
挨拶もせず出発する非をお許しください。
イエリア・セフェナージェ』短く綴られた文字に、焦りや、憤りや、感情の乱れは微塵も見られない。それが、神殿で教える文字だからだと、助祭は知っている。心の乱れを、他に転嫁してはいけないと、説く。だから文字には細心の注意を払う。
あの子供達が、挨拶もせず出発するはずのないことを、助祭はよく知っている。司祭だって知っているはずだと、助祭にはわかる。
「自分達のことですから、か」
大人びたふりをする子どもらの、それが最後の言い分だ。
エウディンは見抜いていた。セトリウエ司祭が、嘘と知りながら見て見ぬふりをするつもりなのだと、いうことも。
「私達の役目は、これでおしまい。戻りましょう、ずいぶん遠くまで来てしまった」
「あの子らはもっと遠くへ行こうとしていますけどね」
一瞬の、間。
「そうやって、思ったことを何でも口に出すから、あなたはいつまで経っても助祭のままなんです」
皮肉でも、嫌味でもなかった。セトリウエは我が身を振り返って、落胆したのだ。
それを知っているから、エウディンは何も言わない。
帰り支度を始めた。アルシャインのエカンシアル神殿を出てから、もう二ヶ月が経とうとしている。