閉じ
Soゆく海の音
unds of closing waters
海の底で眠る竜がいる。
飛ぶことのない、目覚めることのない、紺色の竜。
老いることのない竜の眠る海の上を、一頭の若い竜が越えていく。
空色の竜が渡っていく、小さなヒトの姿で。
□□
――飛べ、砂の果てまで!シグーンに言われるままに、レオンは飛んだ。空の色を映し出す鱗が陽の光を拾って、砂の大地に煌めく。
目指すは、砂の果て。
地の果てだ。レオンは無我夢中だった。眼下を滑ってゆく灰褐色の海には、終わりがないように見えた。
風を、砂をその翼で叩きながら、ただ前へ。
レオンの後ろを飛ぶものがある。小柄な体躯、好戦的な気質の、砂色の鱗を持つ竜たち。
空を駆る速さこそ空竜エアドラゴンに劣っても、その翼は疲れと失速を知らない。抜群のバランスを保って、無駄のない羽撃はばたきで、砂竜デザートドラゴンが2頭、レオンを追う。『逃がさん!』
咆哮を背に、レオンは飛ぶ。
迫る憎悪に鱗を焦がされそうにさえなる。
熱い吐息は硫黄の匂い、怒りに満ちた、冷たい竜の血が低温で煮えたぎる音がする。
前にも後にも凹凸を繰り返す灰色の大地。大小の隆起を次々に越えてゆく。自らが落す影を追い立てるように、前へ。レオンはただ、混乱する頭の中に、自分を連れ出した者の名だけを思い出していた。
――アルファルドアルデバラン、“独りなるもの”、なぜ貴方は“独り”なんだ
――なぜ、僕らは“独り”なんだ?
思いは声にならない。喉が鳴らない。
レオンはただ飛び続けた。
その視界の先に、何か天へとのびるものが見えた。そびえ立つ何かが。――あれだ。
レオンは羽撃きをやめた。
□□
イエリアは、エニィが消えた空を見やった。
ヴァイルは竜達が飛び去った空を見やった。
そこに何も現れることのないことを確認して、2人は横たわる少年に近づく。アルゴルに気に入られた少年を、ヴァイルは複雑な思いで見つめた。イエリアはそばに座り込むと、額に手を当てる。茶色い髪は出会った頃に比べだいぶ伸びた。
「手伝ってくれる?」
「ああ」
ヴァイルは素直にうなずき、イエリアが地面の平らそうなところへ運ぶのを手伝ってやった。
「ありがとう」
イエリアがそっと歌を口ずさむ。この旅に出る前、シェリアクにいた頃、よく歌った歌だ。信ずる神の名を唇に載せて、聖職者は祈りを込める。どうか、目覚めますように。
蘇生の術は、よほど高い位を持つ司祭でなければ扱えない。やっと浴礼を受けたばかりのイエリアに扱えるはずもない。だが目の前に横たわるのは、死人ではない。手首はあたたかく、軽く息をしている。顔色も悪くはない。すこし、気を失っているだけだ。
その茶色い前髪の下にある、茶色い眼差しがまたすぐ笑うようにと、イエリアは祈りを込める。唇は歌う。
大地の女神を尊ぶ言葉が、深い優しい歌声に乗って、風を拾ってゆく。……ルディオは、目を覚ました。
□□
降り立った地に、それはあった。しなやかな体躯が音も無しに空を降りてゆく。レオンは静かに着地した。幾許かの砂が舞い、すぐに静かになる。目の前に傾く塔があった。
(人が建てたもの……じゃあない……)
レオンが頬を寄せると、かすかに故郷の音がした。谷合を滑ってゆく竜の羽撃きと、風のこだます音が。しばし故郷を懐かしんで、そこに現実の音が重なって、レオンは目を開けた。砂竜デザートドラゴンが向かってくるところだった。
レオンは身震いをひとつ。空色の鱗がなめらかな音を立てた。灰褐色の空のせいで、レオンは白っぽく見えていた。
覚悟をひとつ。レオンは身構える。容赦なく砂竜デザートドラゴンが迫り来る。
レオンは吼えた。高く長く、自らを鼓舞するように。
灰色の瞳で、2頭の竜はレオンを捉えた。
レオンは、今度はしっかりと立ち、子どもである自分と変わらない大きさの、その小柄な竜たちを見つめ返した。
熱い、瞳。その憎悪の色を、受け止めるほどの強さを持ってはいない。でも、遠い故郷の音がレオンを強くさせた。目をつむってはいけない。
速度も落とさずに砂竜デザートドラゴンが突っ込んでくる。揉み合いになる。上へ下へと転がりながら、レオンは果敢に応戦した。
『鎮まれ!』
響き渡る咆哮。レオンも砂竜デザートドラゴンも動きを止めた。
シグーンだった。その場の誰より怒りに体を震わせている。『此処が犯されざる場所であると、知らぬわけではあるまい?』
シグーンは舞い降りてきて、母が子をかばうような仕種で、レオンの前に立ち塞がって言った。2頭の砂竜デザートドラゴンは少し後ずさり、威嚇のような唸り声を上げる。だがそれ以上の動きはない。
沈黙がしばしその場を制す。
レオンはたまらず吼えた。
『僕らが何をした! 飛翔竜があなた方に何をしたと言う!』
『黙れ、空の子』
怒りを抑えた声音で言う。瞳を細め、シグーンは背に立つ傾き掛けの塔を示す。
『知るがいい、すべての竜が知り、お前たち飛翔竜が知らぬすべてを』
□□
ルディオは身を起こすと、辺りを見回した。
「エニィは?」
「行っちゃった」
「は、なんで? …なんで止めてくれなかったんだよ!」
つかみ掛かろうとして、ルディオはよろけた。まだ体力が完全に回復していない。少年の腕を支えてやりながら、イエリアはらしからぬ低い声音を紡ぐ。
「ごめんなさい、止める間も無かったの」
「いいよ」
その声の冷たさに少しだけ戸惑って、その戸惑いを隠すかのように、ルディオは拳を握りしめる。
と、魔術師見習いの少年は手の中のものに気付いた。知らぬ間に何かを握りしめている。掌をそっと開いてみれば、銀づくりの小さな輪っかが中にあった。それは丁寧な細工の施された、
「指輪だ」
エニィだ、ととっさに気付く。だが彼の意図がわからなかった。
「でも、もう一回会うつもりなのだけは、確かだ」
「…どうして?」
「見て、これ精巧な造りだけど角とか、模様が少しすり減ってる。長く持ってたんだ。きっと大事なものだ。…そんなもの、たった数回会っただけの俺なんかにくれるはずないだろ」
秘密を教えてくれた、魔術への自信もくれた。だけどそれだけで、自分が彼に気に入られているのだと思うほど、ルディオは自分を高く評価していない。でもイエリアもヴァイルも、あの魔術師がルディオを特別視していることを知っていた。
「あの人、ルディオが探している人に似ているんだって」
「似てる? 誰を探してるんだ?」
言いながら、顔も覚えていない父のことを不意に思い出した。名前も、性格も、何をしていた人なのかも、知らなかったけれど。知らないことを思い出して急にまた、ひどく恋しくなる。故郷を懐かしめる人が、ほんの少しだけ羨ましい。指輪を仕舞い込んで、ルディオは仲間が一人足りないのを思い出した。
「レオンは?」
「行ったっきりだ」
ヴァイルがそれ以上の言葉を面倒くさがるように言う。ルディオは少しだけ不安になる。
「……ここ、竜の棲み処だよな? プアジェのときみたく、故郷に帰ってったってことは、ないよな?」
「可能性はあるな」
竜の考えは妖精のそれとはちがう。竜が何を思うのか、ほんとのところ誰にもわからない、と暗に込めてヴァイルが言う。
「でも……あいつ空の竜だろ。砂漠には馴染まないだろ?」
それは希望というより、確信に近かった。
レオンが砂漠に惹かれたのは、ここに竜がいたから。竜に呼ばれたから、来た。
でもそれは、帰るためじゃない。空の竜が帰る先は、空しかない。だからまだ、“帰らない”。
「戻ってくると思いますか?」
レオンの眼差しを知るイエリアは言う。
「絶対戻ってくる。待っててやろうぜ」
ルディオの確信は、数時間後、事実に変わる。砂の向こうから、一人だけで姿を現したレオンは、人の姿をしていた。なんだか少し大人びて見えた。しかしそれも一瞬で、レオンはまた子どもの顔をつくる。
竜の子を迎え、4人は誰ともなしに、歩き出す。西へ。陽が傾くほうへ。人の街のあるほうへ。
言葉はなかった。
おかえり、とか、ただいま、とか、そんな陳腐な言葉はない。
ただ互いに滲みはじめた絆があるだけだ。
誰ともなしに、互いが黙っていなくなったりしないことを知りはじめていた。砂地を抜け、街道に出た。整備された人間の道に立って、レオンは砂沙漠を振り返った。そこにはもう、何もなかった。
□□
傾きかけの塔は、以前は真直ぐ建っていた。竜たちに今よりも力があった頃に、つくられたものだ。
記憶を引き止めるその塔は、この砂漠にかつては幾つも存在した。しかしそれも時を隔てるうちに、徐々に失われてきた。今はこの一つしか残ってはいない。
それでも最後の一つが、健気に建つ。
陽に揺らぐ影が、傾きかけ塔の表面に刻まれた凹凸の間に落ちる。それは見る間に情景を映し出す。描き出される物語りは、ずっとずっと昔に起こった事ごとだ。
レオンは次々に浮かんでは消える情景を、追いかけた。
影は紡ぐ。切れそうな記憶の糸を。
穏やかな黒き草原 紫の瞳を優しく閉じる
厳かなる白銀の風 銀の瞳をまぶしそうに
荒々しき灰の砂塵 灰の瞳を闇夜にかざす
厳めしき赤き大地 茶の瞳を地に這わせて
勇ましき紺青の海 碧の瞳を天へと向ける
猛々しき緋の火炎 紅の瞳を熱く輝かせて
広大なる空の飛翔 水の瞳を三度瞬かせる
扉は開かれた
最初から3つめの大地魔竜は放たれた
大海原の小さな大陸草原竜は戦った
弱小ながらも勇敢に そして種族を失った砂塵竜は戦った
自らの地を出ることなく そして遺産を失った古風竜は戦った
最強を誇るその力で そして故郷を失った大地竜は戦った
地表震わせ割れ目を作り そして地久を失った火炎竜は戦った
熱き吐息を吐き続け そして力を失った海淵竜は戦った
深き海底閉じ込めて そして時間を失った世界六種の竜族は その身投じて戦い抜いて
勝利しつつも失った それぞれ最も大事なものをその中で ただ一種だけ逃げのびた
空を舞う竜 飛翔竜
結界固めて閉じこもり そして世界を手に入れた…
「嘘だ!」
レオンは叫んだ。
「僕らが逃げた? 飛翔竜だけが戦わずに?」
背が震えた。
「そんなことあるはずがない! ないよ、嘘だ!」
レオンは否定を求めてシグーンを見た。
灰色の眼差しは、しかし冷たい。
初めて会ったときのヴァイルの、永きを生きられない妖精たるダークエルフの眼差しを思い出した。冷たかった。
怒りに満たされた砂竜デザートドラゴンの瞳を思い出した。冷たかった。
僕らが独りぼっちなのは、仲間を見捨てて逃げたから?
(みんなみんな、このことを知っていた?)
「嘘だ! そんな、はず……」――こんな酷いことってない。
悲しみが胸を貫く。息苦しい。苦しくてたまらない。
同胞を何より大切にする竜族の中で、最も仲間を想う竜だと思っていた。
こんなに他の竜を想っていたのに、会いたくて故郷を出たのに、僕らが彼らを見捨てて逃げた?
だから、僕らは独りきり?
堪えきれぬ機微に触れて、敏感な空の竜の子は、よろよろと言葉を紡いだ。
「嘘だ……なんで…そんなこと……」
『受け入れろ、空翔る竜の子よ。
目を逸らすな、それが、お前たちにできるせめてもの償いだ』
□□
塗装された道が、ずっと先まで連なっている。一定の感覚を置いて樹木が植えられていて、人の気配を感じさせる。
「このまま歩いてけば街に着けそうだな」
「着いたらまず食事をとらないと、ね」
時間感覚が完全に狂っていた。砂漠で過ごしたのは一日もなかったような気もするが、体が何日かを過ごしたのかのような疲労を訴えている。人の世界とは異なる、竜の世界に足を踏み入れたせいかもしれなかった。そのくせ、レオンもまた疲れを感じている。
街道に沿って歩いていくうちに、4人は後ろからやってきた馬車に追い付かれた。聞き慣れた音に振り返るより早く、御者の呆れた声が降ってくる。
「あんたら、何だその身なりは」
4人は互いの姿をまじまじと見た。砂にまみれ、風に煽られ、すっかり白っぽく埃っぽくなっている。
「どこから来たのか」とは、聞かれなかった。捜索願いが出されていたことを知ったのは、次の街に着いてからだ。
馬車に載せてもらって、4人は“死の砂漠”デネブに近い街、ディフダに入った。そこに見知った顔を見つけて、ルディオとイエリアは同時に声をあげた。
「助祭!」
王都から北上した街カイトスで、別れたはずのエウディン助祭がいた。陽気な顔を見て、ルディオもイエリアもなんだか心がほっとするのを感じた。
「行方不明になったって聞いた! すまないな、安請け合いなどして」
「ええ、大丈夫です。代わりに面白いものを見られましたから」
イエリアがにっこりすると、助祭はルディオに耳打ちした。
(気をつけろ、あの笑顔を知ってるだろ、あれは目しか笑ってないんだぜ)
(わかってますよ)
負けじとルディオは言い返した。
「今度はちゃんと手配してくださいよ。海を渡るんですから」
レオンの目の奥に、一面の青が広がった。
□□
情景が止む。シグーンはふらりと傾いた塔へ向かっていった。止める間もない、シグーンが塔にその身をぶつける。表面を覆う砂が剥がれ、地上に落下する。
『シグニーデス! 何をしている!』
レオンは、何より砂竜デザートドラゴンたちがびっくりして、吼えた。だが制止の声など効かない。灰褐色の鱗に覆われたシグーンは体当たりを繰り返す。塔が揺れる。傾きが増す。
『シグニーデス!』
止めようとしたレオンを返す眼差しだけで威圧する。その瞳が宿す思いが、レオンを動けなくする。
斜塔は音を立てて崩れはじめた。ゆっくりと、砂煙りを纏いながら形を失ってゆく。次第に音はなめらかさを増し、ついには無音になる。天へとそびえたはずの塔は、砂に、地に伏した。
『これはもう、必要のないものだ。お前が真実を知った今となっては』――やっと、重荷を捨てることができる
レオンははっとして、シグーンを見つめた。
記憶の塔を守り、守ることで背負ってきた悲しみを、これでやっと解き放てると、その雌の竜は言ったのだ。「忘れない。忘れさせない。……だからどうか、僕らが世界なんか手に入れてないことを、忘れないで」
レオンは長く吼えた。
“空竜の島”ベテルギウスにいる同胞たちに、この声が届くといい。
この胸の苦しさが伝わるといい。だが、自らの言葉で知らしめなければ。
レオンは翼を広げる。
帰るためではない。共に旅路をゆく人間たちのところへ戻るためだ。
ダークエルフの眼差しは冷たいだろう。
だが、その赤い眼差しがほんとは優しいことも知っている。仲間を想うゆえの優しさが、憎しみを生むのだと知った今は。
老いることのない竜の眠る海の上を、一頭の若い竜が越えていく。
閉じゆく海の音を知ることのない、空色の竜が、ヒトの姿をして。
第6話「埋もれた碑碣」完