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孤独
Lo

な空
nely sky


 黒装束が揺れる。その茶色い眼差しに、イエリアはもう一度、問いを繰り返す。
「あなたは、なぜルディオに会いに?」
「人を探してるんだ。その人に、似た匂いがするのさ、あの子どもは」
 イエリアはそっと右手を差し出す。
 その手首で揺れるのは、金鐶。浴礼を受けた聖職者だけが持つ。

 手の平を天に向け、イエリアは口ずさむ。
「あなたは救える誰かを探してる」

 エニィは面白そうに静かに笑っただけだった。
 黒装束が揺れる。エニィは空を見上げた。口元が微かに、動き、すっと、エニィの姿がかき消える。
「何のために?」
 声だけを、イエリアの耳元に残して。








□□
 竜が迫る。小柄な影が、ふたつ、飛来する。
 耳を突く、咆哮。咆号とともに、竜の吐く息が辺りを満たす。鼻を突く、硫黄が腐った匂い。
 ヴァイルの顔が険しいものに変わる。ルディオとイエリアが鼻に手をやる。
「なんだよ、この臭いの……!」
「硫化水素ハイドロジェン・サルファイドだ! 火も水も使うな!」
 エニィが空いた片手を竜へと向ける。
「やめろアルゴル!」
 ヴァイルの声が飛ぶ。
 



 その憎悪の色を、レオンは受け止めるほどの強さを持っていなかった。
「どうすればいい、シグーン!」
 竜の子が吼える。








□□
 つい、とエニィの体が沈みこむ。次の瞬間には、エニィは跳び、イエリアの真横に着地している。その眼前には、横たわる少年、魔術師のローブを来たルディオ。
 ルディオの前にしゃがんだエニィの唇が紡ぐのは、アセト・レデアル――魔術師達の言葉。
いつか役に立つ時が来るから
 意識を失ったままのルディオにささやきとともに手の中のものを握らせて、エニィが立ち上がる。優しい笑みを向けた相手は、目蓋を閉じたままだ。
 灰色の地に黒装束が揺れる。エニィは砂にまみれた空を見上げた。








□□
 竜の域たる砂沙漠に、人の姿はある。
 しかしそれには見向きもせずに、灰色い眼差しを、砂竜デザートドラゴンのシグーンはレオンに向ける。
『我々は、ずっとお前を待っていた――飛翔竜の誰かが、ここに辿り着くのを』
 空竜エアドラゴンのレオンの鱗が、空の陽を受けてきらめく。銀の息を吐く竜の鱗にも似た銀色のきらめきに、シグーンは鼻をふいと動かす。竜にもそれがあるとするなら、シグーンは眉を寄せたのだ。
『……思わしくないな』
『何が?』
『お前の鱗は、目立ちすぎるのだよ、レオニーデス』
 一面の濁った灰色のなかに、きらめく銀色の陽の光り。砂が陽を反射するのとは違う、砂沙漠に決してあるはずのない地表の輝きに、最も異質さに敏感な砂漠の竜が気付かないはずがない。
『待っていたのだ、皆、お前が辿り着くのを。だがお前が辿り着いたことを知る者は少ない。しかしそれもすぐに増えよう』
 その目立つ鱗がために。
 シグーンは喉の底から息を吐く、低い咆哮が響いていく。
『何ゆえお前の鱗は色移ろう? 他の竜は変わることなどないのに』
 移ろう空の色を克明に映し出す、そんな鱗を持つのは空翔る竜達だけ。その色は、空の濃度によって決まる。天の機嫌に忠実で、当の空竜の意思などおかまいなしだ。
 そうと知っていながらも、シグーンは問わずにはいられない。
 その色の移ろいは、空竜の意志の移ろいやすいことを暗示しているとしか思えないのだ。
 レオンは吼える、自らへの疑念を払拭するように。
『僕は、僕の意思で此処へ来た! でも鱗の色は、自らの意思で変えることはできない!』
『そうだ、お前が飛翔竜であることを変えることはできないように』
 シグーンは自分と同じくらいの大きさの竜の子を、見下ろして吼えた。
『お前はお前自身である前に飛翔竜であることを知るがいい』
 空色の鱗を持つ竜の子は、砂沙漠の竜の瞳に深い憎悪と悲愴とを見た。


 ――僕らは、かつて何をした?








□□
 風と砂を伴って、翼を広げた竜達はすぐに見えなくなる。濁った砂の大気の向こうへと消えていった竜達を見守ってから、押し寄せる砂の嵐の中、イエリアは祈りを唱えた。小さな範囲の目には見えない結界が張られ、4人を包み込む。荒れ狂っていた砂が、ほんの束の間止む。
 結界の外の渦巻く砂を見やったまま、ルディオが言う。
「レオン一人で行かせていいのか? 好戦的な竜なんだろ、この砂漠にいるのは!?」
「案ずる必要は無い。……約束を、果たしにいっただけだ」
「約束?」
 イエリアがオウム返しに問い、ぶっきらぼうに答えたダークエルフをルディオは振り返った。
「この砂漠には、何がある? レオンは呼ばれたから来たって言ってたよな、呼んだのは、誰だ?」
「それは飛翔竜だけが知ること」
 ヴァイルの冷ややかな眼差しに、引き下がるような子どもではルディオはない。
 知らないことが多すぎた。知りたいことが沢山ある。レオンが来たがったこの砂漠に、いったい何があるというのだろう。
「竜の言葉わかるんだろ、あの砂竜デザートドラゴンが呼んだのか? 約束を果たすために?」
 竜の言葉がわかるのと、竜の心がわかるのとは違う――ヴァイルはそう言いかけて、止めた。人間から見れば竜も妖精も違うだろうが、竜や妖精にしてみれば、そこに大差はないのだ。ただ存在の術と生きる理由が違うだけ、その違いを説明することよりも難しいだろう、と、思ったのだった。
 無言のまま見上げた人の子の眼差しに宿る、過去への興味と好奇心が、ヴァイルには辛い。
「答えろよ、ヴァイル。それとも、何が、あった?」
 短い命しか持たない人間の子どもの問いに、短い命しか持てなかった妖精は答える声を持たない。
 代わりに言葉を紡ぐのは、エニィ。
「2500年以上前、竜達は戦ったのさ」








□□
 かつて、竜達の壮大な戦いが繰り広げられたことがある。
 まだ人間がいなかった頃、世界を支配していたのは7色の鱗の竜だった。世界も安定した頃、全く異なる鱗を持つ魔竜は現れた。魔竜に対し、竜達は全力で挑んだ。戦いは100年近く続いた。
 最終的に勝利をおさめたのは、元から世界にいた7つの種の竜族だった。しかしその代償はあまりにも大きかった。竜族最強を誇る風竜ウィンドドラゴンは故郷を失い、弱小であった草竜グラスドラゴンは種族ごと滅んでしまった。
 その戦いで傷つき、命を落した竜たちは、魂のみを異界で蘇らせ、肉体を持たない竜王となった。そして、唯一飛べない竜、海竜シードラゴンが、魔竜を封印したその場所を今も護り続けている。
 そう、言い伝えられている。
 今から2500年以上も過去の話である。








□□
「2500年も、前? なんでエニィ知って……」
「どこで、それを」
 ルディオの問いに、ヴァイルの声が重なる。
「ちょっと高尚な書にはよく書いてある話さ。過去を知るのは、竜や精霊や妖精ばかりじゃない、ってことだ」
 前半でルディオに答え、後半でヴァイルを遠回しに皮肉って、黒装束の魔術師は言う。エニィの目に宿る憎しみとも憐れみとも違う感情にはたと気付いて、ヴァイルの背を悪寒が走る。
(やはりアルゴル……!)
 確信が、胸を突く。
 構えたダークエルフの意中を察してか、援護するようにイエリアがその後ろに立つ。
 ヴァイルにはわからなかった。なぜここに、自らの目の前に、悪魔アルゴルがいるのか。だが、一つだけ分かっていた。自分の種族の血が、その者を決して許さないという揺るぎない事実だけは。
 故郷を出るとき、一族の長は言った、もしも出会ったとしても、悪魔アルゴルには決して手を出すなと。
 しかし今、目の前にいるまぎれも無い悪魔アルゴルを、どうして見逃すことができる?








□□
『風が舞う』
『あのとき飛ばなかったのは』
『……海ではなく』
『空』

 地上にきらめく、陽の光り。あるはずのない色、空のひとかけらが砂漠に落ちる。それはあのとき飛ばなかった竜の、鱗の色だ。
 ――飛翔竜……!
 ――ついに来たるか。
 7つの竜種の中で最も小さく、機敏で、好戦的で、縄張り意識が強いゆえに異質さに敏感な、砂漠の竜の灰色い瞳に宿る光り。輝きもなく、敏捷な竜の灰色の鱗がこすれた。持ち上がる鎌首の影は、ふたつ。羽撃きは同時に。
 風が起こり、砂が舞い上がる。
 砂塵竜、と自らを称する竜が2頭、砂の空へと飛び立つ。








□□
 ヴァイルの胸の中をよぎったのは、一族の長の顔と、その言葉だった。反論を許さぬ静かな声で、手を出すなと、言われたのだ。
 だから精一杯の妥協を持って、闇の森のエルフは叫んだ。
「何故ここにお前がいる! 出ていけ、異質なるもの! この地は、竜が聖域。貴様などが足を踏み入れるべきでない場所だぞ!」
「お前がそれを言うかダークエルフ! 呪われた種族め!」
 不意に湧いたのは、――憎悪。
 身構えたヴァイルの瞳に満ちる、深い赤の憎悪。
 茶色い瞳を歪ませた、対峙するエニィの眼差しは冷たい。
 どちらが先に動いても、動かなくても、免れないだろう衝突に、辺りを覆うのは、押し潰されるほどの負の感情。
 二人が同時に一歩前進する。
 間髪を容れず、ルディオが飛び出す、両の手を広げて。








□□
 羽撃きの風と爆音と砂を伴って、竜が迫る。小さな、けれど鋭い影が、ふたつ、押し寄せる砂の嵐の向こうから飛来する。それは瞬く間に肉迫して、距離をゼロにする。
 耳をつんざくほどの咆哮。咆号とともに、竜の吐く息が辺りを満たす。硫黄を含む有機物が腐敗したときの、ひどく不快な匂い。自然界の命を抱く竜達の体内でつくられた、天然の毒が吐き出される。
 ヴァイルの顔が険しいものに変わる。ルディオとイエリアが鼻に手をやる。
「なんだよ、この臭いの……!」
「硫化水素ハイドロジェン・サルファイドだ! 火も水も使うな!」
 イエリアはとっさに右手を突き出していた。そこに揺れるのは金鐶、浴礼を受けた聖職者たる証だ。目を瞑り、静けさを胸に呼ぶ。まぶたの裏に蘇るのは、暗がりの中漏れた光りに照らし出される神殿の床の静謐さ。白く強い陽の光り。まばゆいまでの、白の祝福。
「大地の女神よ、我に」
「ヒトが手出しをするな!」
「きゃ!」
 ヴァイルがイエリアの右手を掴む。その力の強さに、イエリアはびっくりして小さなエルフを見やる。その褐色の妖精の、小さくも悲壮な姿。
「ヴァイル? どうして止めるの!?」
「これは竜とエルフと悪魔アルゴルとの問題だからだ。……ヒトを巻き込むつもりはない」
 それがこの小さな妖精なりの優しさなのだと、イエリアは気付いた。その思いを守ってやらねば、と思う。
 その間に、エニィが空いた片手を竜へと向けていた。距離の開いていたヴァイルには叫ぶことしかできない。
「やめろアルゴル!」
 しかしエニィは止めない。差し伸べた右手にうまれる、炎の球。
[集まれ、ナイアードよ!]
 湖水の精霊はしかし、水の枯渇した砂沙漠ではその姿を保てずに、異質な炎に飲み込まれる。炎はそのまま大きくなって、現れた竜を直撃する。
 辺りに満ちる竜の息、硫黄の匂い。そして鼓膜を引きちぎられるかのような強い咆哮。
 怒りに満ちた瞳で、現れた2頭の竜は、空色の竜の子レオンを捉えた。
 彼らの目に移るのは、自身を攻撃した黒装束の人の子でも、褐色の妖精でもなかった。空の色を映し出す鱗を持つ竜だけに、その視線は注がれる。自身の鱗が焦がれるほどに、待ったのだ。








□□
 対峙するエニィとヴァイルがともに一歩前進する。
 唇に載るのは、それぞれの言葉。
 魔術師語アセト・レデアルが、エルフ語が、二人の間を交差したとき、ルディオは飛び出す。
「やめろ!」
「馬鹿!」
 エニィの魔術とヴァイルの精霊とが衝突し、相殺した下に、少年はいた。
 無傷ではあった。エニィがとっさに彼を守らんとしたから。
 ただ衝撃に耐え切れずに、意識を失ってルディオが崩れ落ちる。まっ先に駆け寄ったのはイエリア。少年に傷の無いことを素早く確かめて、立ち上がる。
 ヴァイルのものとは異なる、情熱的な赤の眼差しを、イエリアは黒装束の魔術師に向ける。
「あなたは何をしに来たのです? ……ルディオに会うために来たのでしょう?」
「なぜ、そう思う?」
「私は、貴方を知らない。ヴァイルはあの様子だし、レオンを追い掛ける素振りも見せないあなたなら、その目的はルディオ」
 傍らに眠る少年をかばうように立ちながら、イエリアは声を出す。
「あなたは、なぜルディオに会いに?」
「その答えを知ってどうするのさ」
 エニィは薄く笑う。
 黒装束が揺れる。その茶色い眼差しに、イエリアはもう一度、問いを繰り返す。
「あなたは、なぜルディオに会いに?」
「……人を探してるんだ。その人に、似た匂いがするのさ、あの子どもは」
 イエリアはそっと右手を差し出す。
 その手首で揺れるのは、金鐶。浴礼を受けた聖職者だけが持つ。

 手の平を天に向け、イエリアは口ずさむ。

「あなたは救える誰かを探してる。
 あなた自身が孤独だから。
 独りでいることの自由と束縛を知っているから。
 ――だから、誰かを救い出すことでその孤独に意味を見つけようとしているんでしょう」

 エニィは面白そうに静かに笑っただけだった。
 つい、としゃがみこむと、次の瞬間には、エニィは跳んでいる、イエリアの真横に着地する。エニィのその眼前には、砂地に横たわるルディオの姿がある。
 黒装束が揺れた。エニィは空を見上げた。口元が微かに、動き、すっと、その姿がかき消える。跡形もなく、エニィは消えた。
「何のために?」
 声だけを、イエリアの耳元に残して。



 また独りになったエニィは、空を見上げる。
 自分以外に信じられるものなどないことを、まっさらな空が示す。
 どこまでも広がる空。地平へと続く空。雄大さを示す、一つながりの天穹は、だから、世界にひとつであるがゆえに独りぼっちだ。








□□
 その憎悪の色を、レオンは受け止めるほどの強さを持っていなかった。
『どうすればいい、シグニーデス!』
『飛べ! その最も疾き風を捕らえる翼で、この砂の果てまで!』
 空色の鱗を持つ竜の子は、言われるままに翼を広げる。身を包むのは、壮大な空のイメージ。一面の青。
 ふわり、と躯が宙に浮く。
 羽撃きが地を、砂を、大気を叩く。舞い上がる砂礫に、人間らは目を覆った。その風の勢いに、エニィの黒装束が揺れる。遠い昔に息絶えた草原の竜の鱗の色が、この砂漠に揺れる。
 レオンは舞い上がり、スピードを上げる。風を砂を切っていく。
 まるで海のように波打つ、見渡す限りの砂の大地。
 その灰褐色の空を、レオンはただひたすらに果てを目指す。




 世界への扉を見せた者は名乗った。アルファルドアルデバラン、と。

 ――アルファルドアルデバラン?

 ただ独りで、定めを追い続ける者という意味を持つ。

 ――そうか、貴方は「独り」なんだ。だから独りぼっちの僕らを、迎えに、来た……!


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