砂嵐
Anの答え
swers for a sandstorm
揺らぐ影が視えた、砂の向こうに。
不意に胸のあたりが熱くなり、目蓋の奥についと溢れたのは、風の雫。
涙だ。
(なんで僕は……)
泣いているのは――――誰?
この涙を流すのは、誰?
胸のあたりが熱くなる。同胞はらからが泣いているのだと、わかる。わずかな声が聞こえた。首から下げた小さな竜の飾りが胸元で吠えた。
『来れ、レオニーデス』
あふれた雫が頬を伝い、滑る。
音もなくすっと落ちたそれは地に着いて、砂に解けた。
――今、行くよ。
空色の鱗を持つ飛翔竜の子レオンは、ヒトの姿のまま左足を踏み降ろす、死の砂漠の始まりに。
□□
砂を蹴るように前へ前へと一行は進む。その最後尾で、あでやかな赤の聖職衣が揺れている。イエリアは前の3人を追うように歩いていた。ときどきちらちらと不安そうに後ろを気にしながら。
その仕種に気付いて、イエリアのすぐ前を歩いていたルディオが振り返った。茶色い髪が揺れて、茶色い眼差しがイエリアの目をとらえる。
「どうしたんだよ?」
「……そうね、」
ちょっと迷って、それからイエリアが答える。
「何かしら、何か得体の知れないものが後ろにいるような気がするの。大きな力。押しつぶされそう」
「なんだよ、それ」
小声で伝えてきたイエリアにルディオも小さく返す。
「何も無ければいいのだけど」
けれど聖職者の胸騒ぎを無視できるほど、ルディオは彼らを過小評価してはいない。
「それは近いの?」
「わからないわ」
「急いだほうがいいのかもな」
ルディオは前をゆく竜の子どもとダークエルフの背を見つめながら、その自然界の命を抱くもの達を見つめながら、自分に何ができるだろう、と、思った。その心を見抜いたように、小さな聖職者は微笑む。
「レオンやヴァイルがしようとしていることを、私達は見守ることができるから」
「見届けることはできなくても、か」
その長い長い命に付き合うことはできなくても、この短い時間、そばにいて寄り添うことはできる。支えてやることはできる。
「だから今は、あの二人の後についていけばいいの」
「そうだ……な」
風は吹く。砂の音と礫を運ぶ風が、イエリアの張った結界の外側で渦巻いている。
ここは一面の砂世界だ。行けども行けども、その濁った灰色の景色が変わることはない。
人のものではない領域。ここに入ったものは無事に帰ってこられないとうたわれる、死の砂漠。
「レオン?」
たまらずにルディオは声を出す。
「どこへ向かってるんだ? 全然どこにも」
何も見えない、と、言おうとして、ルディオはにわかに心がぞわっとするのを感じた。湧いたのは緊張でも恐怖でもなく――――憎悪。
(なんだ?)
「こっちで間違いないよ、だって声が聞こえ……!」
レオンが答え終わらぬ前に、突如風は吹いた。めちゃくちゃな風が吹き込んできて、4人はとっさに目を瞑る。凄まじい大気の奔流がいきなり彼らを襲う。砂が口の中に入り込む。
(結界が割れた!?)
「イエリア!」
ルディオの声にうなずき返しながら、早くもイエリアは祈りを唱えようと手を掲げていた。その背後に現れる、黒い何か。
「イエリア、後ろ!」
ルディオはしゃがみ込み、無意識のうちに地面に手をやっていた。口をついて出るのは、魔術師達の言葉、アセト・レデアル。
「等しき円礫、規を示せ!」
声に応えるように、周囲いっぱいに広がる砂粒がほう、と淡く輝く。光は伸びて、互いを結び、一つの直線となる。
ルディオは迷うことなく、砂の地面を叩いた。
「均しき円基、とく城きを火せ!」
手のひらに弾かれたように、砂が舞い上がる。
そのとき、黒い何かは、動いた。それが何かを一振りしただけで、ルディオは自分が築いた魔術が無効化されていくのがわかった。周囲に広がっていた砂礫の光が消えていく。辺りには再び濁った灰色が残されて、空を覆わんほどに砂が舞う。
[シルフよ!]
灰色の霧が一瞬晴れる。
「え、人? 待てよヴァイル!」
そのシルエットに気付いて、ルディオは今にも飛びかからんとした褐色のエルフを無理矢理抑え込んだ。
ルディオはその人影に見覚えがあった。
忘れるはずもない、魔術師院の最高峰“セファル・ホーシズ”の秘密を知る人物――
「エニィ!」
「アルゴル……!」
姿を現したのは、変わらぬ黒装束に身を包んだ、エニィ・オイヴだった。
□□
夜の帳に包まれた中を、御者はやけに冴えた頭で手綱を操っていた。
知り合いから頼まれて断り切れず、子ども達を運んでいくところだった。
彼らは王都から来たのだと言う。そして次はヴェガへ行くのだ、とも。ならば何故わざわざ最北の街カイトスに寄ったのかと尋ねれば、もっとも早いルート、すなわち砂漠のすぐ南を突っ切る道をゆくのだと、言った。
王都の北にある砂漠が、誰もが恐れる場所だと知った上で。
「子どもらが怯えておらんのに、私が怯える理由があるかね」
その独り言に応えるように短く鳴いた馬に目を細めてから、御者はまた手綱を振った。カイトスからヴェガまで、ただ走り抜けるだけなら7日だ。7日分の人間の食糧と水と馬の食糧とそれから幾許かの荷物を積んだ荷台は重たかったが、若い栗毛色の馬はこれを一頭でよくひいた。
賢い馬だ、と御者はいつも思う。そして素直で逞しい愛馬を誇りに思っていた。
その夜は、しかし、少しだけ違った。馬はどこかそわそわと落ち着かない様子だった。
「伝説の獣、ってやつか? だがここは砂漠じゃあない」
御者は怯える馬をなだめながら夜を進んだ。
ふと、馬が立ち止まる。馬の耳が動いて、馬が振り返る。否、何かを見ている。御者はつられるように横を向いた。
地面が仄かに光っていて、御者はぎょっとして立ち上がった。
「な……っ!?」
何かが、そこに、いた。
「あ、あ、あ……!」
そのとき、轟音が響いた。直後、地面が跳ねた。
□□
イエリアは右手の鐶に軽く口付けて、祈りを終えた。
とたんに周囲の風が止む。荒れる風は消え、ふわりとした柔らかな風に4人とエニィは包まれる。イエリアはレオンの前に立った。その横にルディオ、ヴァイル。
エニィは茶色い眼差しを曇らせて、言った。
「脅かすつもりはなかったんだ、ただルディオの姿を見つけたから、近づこうとして」
「それで結界を破ったの?」
「外からじゃ、そこに結界があるなんてわからなかったからさ」
「そこにあるかどうかわからないように張りますから」
イエリアが認めたので、ルディオはふうん、とうなずいてエニィを見やる。どこから眺めても、エニィだ。光の森の手前で別れたときと、変わらぬ姿でそこにいる。
「まあ、それでこうして再会したんだし、」
「だまれ」
遮ったのは、ヴァイルだ。低く鋭い声音で、威嚇するかのような剣呑な眼差しで、ヴァイルはエニィを見上げた。
「だまれアルゴル」
その深い赤の瞳に宿ったものの正体に気付いて、ルディオははっとした。
――――憎悪。
イエリアが何か大きな力があると言ったとき、心の奥で感じたもの。
(あれはヴァイルの感情だった?)
前にエニィに会ったときも、そういえばヴァイルはあからさまに嫌そうだった、と思い出す。
ならばさっき飛びかかろうとしていたのは、相手がエニィだとわかったから?
「ヴァイル。おい、ヴァイル!」
ダークエルフの褐色の腕は、掴むとやけに小さい。
「ここで喧嘩はするなよ? 第一エニィは俺の知り合いだ」
「お前は知らないのか? こいつは悪魔アルゴルだぞ」
「だから何だよ、その『アルゴル』って……」
言いながらルディオは、以前、名前を聞いたとき、それが「不吉な名前」だと聞かされたことを思い出していた。
「待てよ、エニィが何をしたって言うんだよ!」
「ふん、大方ずっと我々の後を付けてきたんだろう」
「さあ、それはどうかな」
睨むヴァイルをさして気にするふうでもなく、エニィはイエリアに目をやった。
「初めてお目にかかるね? 俺はエニィ・オイヴ」
「あなたが……昨晩、私達の馬車を襲ったのですか?」
ルディオははっとしてイエリアを見た。イエリアの眼差しは真剣だ。エニィは少しだけ戸惑ったような顔をして、それから声を出す。
「俺が? まさか!」
「でも、あの馬車がまだ動いていたら、私達はここへは来なかったのですよ?」
「何が言いたい」
急に冷ややかな口調になって、エニィはイエリアを見返した。
「あなたはこの砂漠で私達を待っていたのですか、と聞いたのです」
「何のために?」
「ルディオに会うために」
「……俺?」
ルディオは対峙するイエリアとエニィとを見比べた。
□□
声は喚ぶ、レオンを、その竜の音で。
レオニーデス
レオニーデス
レオニーデス…
『今、行くよ』
音にならない竜の声音で、レオンは吠える。懐かしい音は、しかしヒトの姿をしていては出ない。喉の奥がもどかしい。なぜ、名前を知っているんだろう?
なぜ、僕は故郷を出たんだろう?
思い出せないなにかが、頭の奥でひっかかって、もどかしい。レオニーデス
レオニーデス
レオニーデス…
『今、行くよ』
僕は自分が知りたいよ、だから今、行くよ、確かめに。竜の羽音が空に谺す。
□□
不意に、影が落ちる。レオンははっとして空を見上げた。上空を横切るのは、同胞はらからの姿。
ヴァイルは自分の耳が捉えた音にはっとした。それは、竜の翼の音だ。
声は二人同時だった。
「竜だ!」
つられるように、ルディオ、イエリア、それにエニィまでもが上を見る。灰色の、砂のような色の鱗を持つ竜。それはこの砂漠に棲む、砂竜デザートドラゴンだ。
姿は瞬く間に大きくなる。近づいてきているのだ、そのまま速度を緩めるでもなく、5人のいる場所に、突っ込んでくる。
まっ先に手をかざしたのは、エニィ。
しかし詠唱を始めるよりも、すぐそばに風が起こるほうが早い。
「何!?」
何か膨大な力が、膨れ上がる。水色の輝きが弾け、現れたのは空色の鱗を持つ竜。ベテルギウスにしか棲息していない、空竜エアドラゴン。小柄なそれは、子どもだ。竜の姿に戻ったレオンだった。
砂竜は、竜の中でも最も小さい。だから子どもの空竜ほどの大きさしか無い。
レオンは闇雲にその竜にぶつかっていった。
はっとして叫んだのは、ヴァイル。
「飛翔竜!? 何を考えている! 相手を逆上させるだけだ!」
その声はもうレオンには聞こえていなかった。怒りに身を委ねた砂竜デザートドラゴンを相手にするので精一杯だったのだ。砂竜は相手が子どもであるとさえ気づいていない。
レオンのほうが劣勢なのは、明らかだった。
「ヴァイル! 砂竜のこと知ってるんだろ、どうすればいい?」
「どうしようもあるか! あれは好戦的な竜なんだぞ! それに……飛翔竜は!」
戦う竜達のほうにつと視線を走らせ、ヴァイルは蔑んだ目付きで額にしわを寄せる。
「ヴァイル?」
「それなら、なんとかして鎮めなければね」
イエリアは手を合わせた。右手の鐶が揺れる。言葉を、祈りを、研ぎすました心に唱えていく。
「大地の女神よ……」
しかし喧噪は止まない。神の奇跡は、竜鱗の上には降らないのだ。
そのとき、2頭の竜がもつれ合うように倒れてきて、一番手前にいたルディオはその影に飲まれた。身動き一つできずに、ルディオはただ影が自分に覆いかぶさらんとするのを見るだけだ。
「……配せり旭影!」
エニィが叫びながら駆け出す。真っ黒な独特のローブが風に揺れた。言葉の終わりに、2頭の竜の間に赤みがかった光がうまれる。日の出の陽のような色の輝きが、竜を包んでいく。
竜のどちらかが吠えた。
耳をつんざくような咆哮をあっさり無視して、エニィは竜の下に潜り込み、立ちつくすルディオを突き飛ばす。次いで自身も跳んで逃れる。その後ろに、ずしんと重たい音を立てて、竜が2頭とも派手に転がった。舞い上がる大小の砂礫がその場を覆った。
□□
夜明けのベテルギウスに、そは来たり。それは、レオンを求めたわけではなかった。
それは、レオンでなくても別によかった。
ただ、レオンにはその声が聞こえたのだ。お前が今いるのは、何処だ?
――ベテルギウス。僕ら竜の聖域。
ならば、今いる世界の名は?
――世界? ベテルギウスだよ。
否!
――……ほかにも、世界があるの?
そうだ。
――じゃあ、ほかにも、竜がいる?
いるとも。会いたいか。
――うん……会ってみたい。
ならば、外へゆこう。我が名はアルファルドアルデバラン。我が名を叫ぶが良い、世界知らぬ竜の子よ。重く、低く響いた声が身を潰さんとする。
逃れられない圧力で、その音はレオンに名を喚ばせた。
――アルファルドアルデバラン光りがレオンを飲み込む。
意識がすっと遠くなる。空が広がる。海が広がる。風の音が耳を抜ける。
ふと、レオンの知らないさまざまな竜が、こちらに向かってくるのに気づいた。空色の竜、緋い竜、蒼い竜、巨大な竜、小さな竜、銀の風をまとった竜、そして真っ黒な竜が、次々に現れレオンを追い越していく。――こんなに、いるのに、何故僕らは独りぼっち?
アルファルドアルデバランは答えなかった。
□□
2頭の竜が眼前に迫ったとき、ルディオは足が竦んで動けなかった。声も出なかった。もしあのとき、エニィが飛び込んできてくれなかったら、自分はいまここにこうしていないのだ。
(だから絶対、馬車を襲ったのはエニィじゃない!)
ルディオはエニィを信じたかった。自分の魔術師としての素質を認めてくれた人だから。魔術師院の最高峰“セファル・ホーシズ”の秘密を打ち明けてくれた人だから。ゆったりと起き上がった砂竜デザートドラゴンの目には、もう憤りの色は無かった。ただ一言、竜の言葉で
『私としたことが、我を忘れるとはな』
つぶやいただけだった。
レオンはヒトの姿をとり、そんな砂竜を見上げていた。
「僕を喚んだのは、あなた?」
砂竜デザートドラゴンは怪訝な顔をした。答えない砂竜の代わりに、イエリアが問う。
「呼ばれたの? それで来たの、この砂漠に?」
レオンはイエリアの目を見つめ返し、小さくうなずいた。
「ずっと、ずっと呼ばれてた」
「それじゃあ」
「だから言ったじゃん、エニィは馬車を襲ったりしてない」
ルディオは胸を張って答えた。そのときふっと口元を緩めたエニィを、誰も知らない。
□□
『我が名はレオニア=レオニーデス』
レオンは音にならない竜の声で、言った。砂竜デザートドラゴンは、それに応えて吠えた。
『我が名は、シグニーデス』
初めて会った、違う色の鱗を持つ同胞はらからに、レオンは優しく応える。
「そう。シグーン、それじゃああなたは、誰が僕を喚んだか知っていますか」
『……待っていたのだよ、飛翔竜』
「僕を?」
『否、飛翔竜の誰かが、ここに辿り着くのを』
シグーンは翼をぴんと張ると、羽撃はばたかせた。風が起こり、砂が渦巻く。
『皆、待っていた』
風に煽られて砂が舞い、小さな砂嵐が起こる。
その砂嵐の中に情景が見えた。浮かび上がるのは暗い空、夜だ。山脈を背に、砂漠を右翼に。
目を凝らせば、地上を走ってゆくものが見える。馬車だ。
なおも見つめれば、仄かな光りを伴って、浮かび上がるものがある。それは地面の下にいる。竜の形をしている。
「これは……」
突然、地面が揺れた。地の下にいるものが、身を震わせている。それだけで地に走る亀裂が伸びていく。
「あ、大地竜……! まだいたんだ!」
『そう、大地竜だ。しかし、もう地上にはおらぬ』
砂竜の言葉とともに、情景は消えた。
情景を映し出した砂嵐も止んだ。
馬車を襲ったのは、レオンを砂漠へと導いたのは、大地竜――もっとも巨大な体躯を持つ竜だ。
「この砂漠には、何があるの?」
『そは自ら確かめるべきなり』
レオンは、故郷ベテルギウスを出たときの記憶が無かった。ただそれを、今、ぼんやりと思い出しかけていた。
意識がすっと遠くなる。空が広がる。海が広がる。風の音が耳を抜ける。
ふと、さまざまな色と大きさの竜が、こちらに向かってくるのに気づく。空色の竜、緋い竜、蒼い竜、巨大な竜、小さな竜、銀の風をまとった竜、そして真っ黒な竜が、次々に現れレオンを追い越していく。――こんなに、いるのに、なんで僕らは独りなんだろう?
そうだ。その答えを、探しに来たのだ。