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雨の
Af


ter the rains


 暗い空が、人々の口をつぐませた。絶え間ない雨音が全てを洗い流していく。人々は呆然と、街のあった低地を眺めていた。低地を渦巻く水の音、大地を叩く水の音のほかに、違う音を聞いて、まっ先に振り返ったのはヒトの子どもよりも小柄な生き物、エルフのヴァイルだ。先の尖った細長い耳をぴくりとさせて、ヴァイルはその音に耳を澄ませた。
 からからから、と、鉄の車輪の音がしていた。それに、馬の蹄が地を掻く音も。
 ヴァイルの様子に気付いて、レオンが同じように振り返る。目を凝らせば、暗い雨の下を、一頭立ての馬車が近づいてくるところだった。
「ルディオ」
「ああ?」
 名を呼ばれルディオが顔をあげる。濡れて顔にへばりつく髪を横にやって、見れば、遠くに馬車。御者台には知った顔が座っていた。自分達をすぐそこまで運んでくれた、オウリエの仕事仲間の男だ。
「ほら、乗りな」
 御者は近くまで来ると、そう言った。ルディオはゆっくりと立ち上がった。レオンは、後ろを振り向き、途方にくれたような人々を眺め渡す。
「でも……」
「いや、行こうレオン」
 ルディオは濡れた手で、レオンの頭をくしゃっと撫でた。
「俺イエリア呼んでくる」
「ルディオ?」
 抑揚のない声にびっくりして、レオンは顔を上げた。しかし顔は見えない。その横でヴァイルが、小さくつぶやく。
「そうだな、先を急いだほうがいい」
「なんでそんなこと言う」
「時間が無いんだ、我々には」
(……お前ら竜と違って、な)
 ヴァイルは心の中で付け加えて、ひらりと馬車の荷台に飛び乗った。雨避けの幌がかぶせられた荷台は、湿気った空気が入り込んできていたが、床は乾いており、ヴァイルが手をつくとそこだけくっきりと水の跡が残った。風の妖精を喚び、それを漂わせながらヴァイルが濡れた体を乾かしていると、不本意そうな顔でレオンが乗ってきた。
 続けてイエリアが乗り、水を吸って重たくなった荷物を引き上げながら、最後にルディオが乗った。
「全員乗りました」
「はっ!」
 手綱が振るわれると、水を叩くような音がした。すぐに馬車は動き出す。その場所から離れていく。
 揺れる荷台に座る4人は無言だった。
 イエリアは泥だらけになった自分の鞄を大事に抱えていた。中には高司祭から預った小さな包みが入っている。
(この雨で、中まで濡れてなければいいけど)
 ヴァイルの喚んだシルフが、ヒトの目には見えない風の妖精が、ゆっくりと幌の中を巡っていた。乾いていく鞄に手を当てながら、イエリアは目を閉じた。当てた手がほんのり温かい。
(何が入っているのかしら)
 その温かみは、優しくて懐かしい。イエリアはふっと、意識を手放した。夢に落ちていく。
 雨の音がしていた。幌を叩く規則的な音が4人の間を満たす。
 ルディオはきつく目を閉じた。溢れた川の水がこちらへと迫ってくる情景が浮かんだ、立ちつくすばかりで流れを止めることも勢いを削ぐこともできなかった自分が思い出される。
(俺は、無力だ。何もできない子どもだよ、導師)
 自分を送りだした魔導師の顔が浮かんだ。彼は言った、世界を見てこい、と。
(なんで俺じゃなきゃいけないんだよ)
 もしもそれが自分にしかできないことだというのなら。
 ならば世界を見終わる頃には、自分は何かを得ることができているだろうか?
(あなたに近づきたいよ……)
 悔しさに熱いものが溢れる。ほおを伝うのは、雨粒とは違う味を持つ雫。
 ぬかるんだ道を、子ども達を乗せて馬車は駆けていく。アンブルからトロットへ、そして次第にキャンターへ。地を蹴る蹄の音が雨音に溶けていく。








□□
 アンタレス王国の最北、リゲル大陸を分かつように聳えた山脈を背にしてそれはある。王国と同じ名前を抱く王都、アンタレス。
 聖カレンタアンタレスと呼ばれる都、王国の中枢たる場所にレオン達一行は到着した。
 その入り口には、見上げるほどに大きな神殿が建っていた。美しい石灰岩を磨き上げ、丁寧に築き上げられた神殿は、一行を圧倒した。神殿のずっと前で馬車を降り、6人は飾りも華々しい門扉の前に立った。
 セトリウエ司祭が、門扉に触れる。何か小さく祈りを唱えると、門扉の一部が薄く輝く。
「名と、用件を」
 短く声が振ってきて、セトリウエは上を向き、声を張り上げた。
「わたくしはアルシャインより参りし、セトリウエ・ジェイルフェイエ・イル・ガイア。大司教猊下への拝謁を許し給わりたい」
「ならば身分を証明するもの、ならびに紹介状を持て、中へ」
 門扉の一部が開く。セトリウエは一歩踏み出し、
「あなた達は、ここで待っていて」
 振り向かずに言うと、一人その中へ消えた。すぐに扉は閉まり、やがて輝きも消えた。レオンはきょろきょろと辺りを見渡し、ルディオはその大きな門扉を見上げた。
「で、セトリウエさんは何しに行ったの?」
「御目通りの許しを請いに行かれたの」
「つまり、偉い人に会えるようお願いしにね」
 イエリアの言葉をエウディン助祭は言い換えて、おもむろに肩に手をやる。
「少年よ、君も神殿に仕えてみないか?」
「やですよ、俺は魔術師だよ?」
「魔術師? まさか!」
「見ればわかるでしょう、これは魔術師のローブ」
 意外そうな助祭の顔に、ルディオは気分を害されて、ぶっきらぼうに答えた。しかしそれ以上に、露骨に嫌そうな顔を、助祭はした。
「助祭さま?」
 イエリアが声をかけると、助祭は元の表情に戻って、しかし厳しい声で、告げる。
「その格好はまずい。そのままでは神殿には入れない」
「なんでさ?」
 助祭は答えなかった。








□□
 濁流が押し寄せたとき、イエリアはそれをはっきりと知覚した。
 恐怖。
 言い様のない、冷たく重たい風が、心を支配する。誰かが逃げろと叫んだが、体が動かない。どこへ行けばいいのかもわからない。
(どうしちゃったんだろう、わたし)
 周囲には、傷を負った人々がたくさん横たわっている。彼らをそのままにして逃げることはできない。だから一人でも多くここから運んであげたいのに、体が動かない。
(怖いの?)
 全身を、こみあげるこの冷たいものはなんだろう。
 恐怖。
(怖いのね、わたし……怖くて動けないの?)
 濁流が目の前まで迫ったとき、イエリアはそれをはっきりと知覚した。
 奇跡。
 輝きが、不意に足元に広がる。
 急に身軽になって、イエリアはすぐさま立ち上がった。風に乱される髪を押さえ付けて足元を見る。自分の鞄が、無造作に広げられたまま足元に転がっていた。そこから輝きが漏れていた。白い輝きが、地を這うように一直線にどこかを差している。
(何なの?)
 そのとき何人かが駆け付け、負傷者を抱きかかえた。彼らの迷いを吹っ切るように、自分の戸惑いを隠すように、声を出す。
「あちらへ!」
 イエリアはまっすぐに指した、手を、光が差すほうへ。
 人々はうなずき、イエリアが示すほうへ動いていく。濁流はもうすぐそこまで迫ってきていたけれども。
(それが何だというの!)
 イエリアは、勇ましさを持って濁流に向かい合った。胸に手を置く。
「母なる大地たる女神ガイアよ、その恵みを受ける娘に今一度、御慈悲を」
 祈りは、小さな奇跡を引き起こす。
 足元に溢れた輝きが、さあっと広がり濁流を飲み込む、水の流れが光に包まれて、そして霧散する。その間にイエリアは、地面に転がっていた自分の鞄を拾い上げた。中には大事な大事なものが入っている。
 駆け付けた人々を手伝って負傷者を運びながらふと振り返れば、何事もなかったかのように、もとの暗さが横たわっていた。手元の鞄からももう輝きは漏れてこない。
(あなたは、誰?)
 イエリアは高台を目指した。逃げ道を、輝きを、決意をくれたそれに、感謝を唱えながら。








□□
 ばたん、と音がして扉が開く。現れたセトリウエ司祭は、その綺麗な顔をしかめて、言った。
「見下されたものだわ。タナティンシさまの紹介状では通れないそうよ」
「最高司祭の書簡を撥ねるなんて随分と強気なものだね」
 エウディン助祭は皮肉り、ルディオが現実的な問いを発する。
「じゃあどうするの?」
「ピリ・エア・ウアにいらっしゃる司教さまに御会いしてきます」
「俺も行こうか?」
「いえ、助祭は残って。こちらで何があるかわからないから、いざというとき盾になってあげて」
「よし、承った」
 セトリウエ司祭は馬車のところまで戻ると、その馬のたてがみを撫で、御者に言う。
「この馬、人を乗せたことは?」
「ありますよ、乗るんですか?」
「ええ。鞍と鐙あぶみ、あるかしら」
 司祭が問う間に、御者は荷台を外し、床板を外してその下から馬具をひと揃え取り出した。馬をなだめながら、慣れた手付きで手早く取り付けていく。
「司祭、馬なんて乗れたんだね」
「そんなことを言っているから、あなたはいつまで経っても助祭なんです」
(そうなんですか?)
(まさか!)
 イエリアの小声に答えて、エウディン助祭は肩をすくめる。セトリウエ司祭はひらりと馬にまたがった。その姿はどこか優雅だ。
「では、行って参ります」
「どうぞお気をつけて」
 レオン、ヴァイル、ルディオ、イエリア、エウディン、それと御者に見送られて、セトリウエ司祭はもと来た道を駆けていく。王都に隣接する街を抜け、その先にある司教がいる神殿のある街へ向かうためだ。曲がり角を曲がり、その姿が見えなくなると、助祭は御者に近づき、その手に銀貨を握らせた。
「あの馬、しばらく御借りします、これで代わりの馬をお探しなさい」
「しかし」
「馬が無くてはあなたも困るでしょう?」
「私はすでに、報酬を戴いてるんですよ?」
 御者は不本意そうに、聖職者が差し出す対価を受け取った。御者と馬のいない馬車とを残し、助祭は子ども達を連れてその場を後にする。間もなく5人は、王都に隣接した街、ウナルベクサ・ノチウの石畳に足を踏み入れた。中央に細長く花壇が連なる通りを人々の声が飛び交い、明るい陽射しが街の隅々までを照らしている。
 イエリアは故郷のシェリアクとは異なる街並みをまぶしそうに見つめ、白い空の陽を仰ぐ。その横を歩くルディオは、街の中心へと向かっているらしいエウディン助祭に、声をかけた。
「どのくらいで戻ってくる?」
「ピリ・エア・ウアまで駆けて半日、今夜御会いできたとして、手紙を書いて戴くのに丸一日かかる。戻るのにやはり半日。早くて明後日の午後だな」
「それじゃあ、どっか泊まるとこ探さないと」
「今探してるさ。……悔しいなあ、もうちょっと、っていうとこで手が届かないもんなんだよなあ」
「待つのは慣れてますから」
 イエリアの言葉に、
「俺も俺もー」
 ルディオは声を合わせ、それが本気でないことを知っているレオンは何も言わなかった。
 通りの向こうから、鼻をくすぐる匂いが流れてきて、一行は朝からまだ何も口にしていなかったことに気付く。
「先に腹ごしらえといこうじゃないか」
 聖職者らしからぬ顔でエウディン助祭は言い、子どもらの背を押した。
(待つのに慣れた子どもなんて嫌いだ)
 焦らされるのが苦手な助祭は、子どもらの嘘を見抜いて思った。早く、できるだけ早く司祭が戻ってくるといい。








□□
 イエリアが歌を歌っていた。その声に目を覚ました自分がいた。
「今の……?」
「起きちゃった? ごめんね」
 聞かれたことを恥ずかしがるように、照れくさそうに、イエリアは口早に言う。
「天の主神ウラノスが、大地の女神ガイアに恋をする歌なの。豊穣を願い祝う歌として、母から教わったのよ」
「古い歌なんだ?」
「そうだね。母も、祖母から継いだって聞いた。我が家に伝わる古い歌」
 同じように目を覚ましたレオンが、せがんだ。
「もう一回、歌って」
 上手くないんだよ? と念を押してから、イエリアは息を吐いて、吸った。
 小さな唇に、緩やかなメロディーが載せられる。石造りの家の中を、祈りにも似た言の葉が流れていく。




 歌声に、目を覚ます。
 イエリアがあの歌を歌っているのだと、覚めやらぬ頭で気付いて、ルディオはゆっくりと起き上がった。一人早く起きたらしいイエリアが、窓枠に手を、腕に頭を乗せて、ぼんやり歌を口ずさんでいた。
「おはよう?」
 声をかければ、若い聖職者は長い髪を揺らして振り返る。
「おはよう。……ごめん、また起こしちゃったね」
「着替えるから、ちょっとそっち向いてて」
「あ、うん」
 がさごそと荷物から着替えを取り出し、ルディオは着ていた薄い服を脱ぐ。代わりの服を頭から被ろうとして、流れる沈黙に耐えられなくて、
「それ、何の歌だっけ」
「天のウラノスと大地のガイアの歌よ」
「そう、それ。俺、神さまのことよく知らないんだ。何した人?」
「何をした、というよりも」
 窓の外から流れてくる微風に長い髪を揺らしながら、イエリアは街並を眺めたまま、ふと思いついて口元に笑みを浮かべる。すっと息を吸って、毅然とした口調で、言葉を紡ぐ。
「このリゲル大陸は、大地の女神ガイアの身体でできていると言われています。その心は地を離れられずに未だ留まっているとも言われています。天の主神ウラノスは、ガイア神の夫にあたる神。天界にいて、大地ガイアを見守り続けている存在です。二柱には子供がいます。それが太陽の神ヒュペリオン」
「なに、何の話し?」
「あ、助祭さま!」
 イエリアはびっくりして振り返り、着替えの途中だったルディオはとっさに後ろ向きにばたんと倒れた。エウディン助祭が、ルディオの隣で起き上がり、笑っている。
「私も聞きたいな。続けて」
 その穏やかな淡い赤の瞳は、真直ぐにイエリアを見ていた。自分は試されているのだとイエリアは気付いて、軽く深呼吸をすると、目を閉じ続けた。
「三柱はそれぞれ、ガイアは安定を、ウラノスは永遠を、ヒュペリオンは恩恵を司っているとされています。私達の祖先はガイア神を……安定を選びましたが、この3つの要素は互いに繋がっていますから、一概にどれと言うことはできません」
「うん」
「ガイア神は大地を、ウラノス神は天空を、ヒュペリオン神は昼を司ります。夜はまた別の神が司っていて、ヒュペリオン神をのぞく三柱は“月”を持っています」
「月?」
 横たわったまま器用に着替え終えたルディオは口をはさんだ。「月」と言われ思いつくのは、夜空に浮かぶ白い円だ。ときどき昼間でも見ることができる。
「三柱はそれぞれの“月”を媒体として、この世界にその力を与えていると言われています」
 ぱちぱちぱち。
 イエリアが言い切ると、エウディン助祭は手を叩いて、こう、評した。
「上出来。もう立派な助祭になれるね」
「それは御自分を褒めていらっしゃるんですよね?」
 イエリアは意地悪く言い返し、エウディン助祭はその通りだよ、と笑った。
「ねえ、“月”って、あの月?」
「そう、あの月」
「でもウラノスの“月”は、“太陽”とも呼ばれてるね」
 エウディン助祭は付け加え、着替えるからあっち向いてて、と窓のほうを示して子どもらに言った。その窓の向こう、広がる青空には昼を照らす唯一の月、太陽が浮かんでいる。








□□
 助祭のあからさまな嫌悪の顔を、ルディオは思い出していた。
(俺が何をした?)
 魔術師だと名乗っただけで、助祭はそれまでの優しい笑みを捨てた。イエリアが声をかけなければ、そのまま罵詈雑言を浴びせられそうな気配さえした。
 眠れなくて寝返りを打つと、隣のベッドで寝ているエウディン助祭の横顔が目に映った。穏やかな寝顔だ、自分を見つめたあの顔と同じ人間のものだとは思えないほどの。
「何を考えていた?」
「!」
 眠っていたはずの助祭が、ルディオのほうを向いていた。
「悪いことをしたと自分でも思うよ、こんな子どもに」
「子どもで悪かったな」
「違う、そうじゃない。私達聖職者は、魔術師という存在を忌み嫌っているんだ」
「……なんで? だってイエリアはそんなこと一言も」
「あの子は知らないだけだよ、辺境の神殿で育ったせいだろうが」
 助祭は天井を見つめ、そして目を閉じた。
「だから、君があの格好で神殿に入るのはまずい。出自を名乗るのもまずい」
「いいよ、外で待ってるから」
「それは危険だ。私や司祭がいないのに、どうやって君を助けられる?」
(助ける? 何のために? 第一、何から?)
 ルディオは寝返りを打った。考えたくない現実に、助祭から顔を背け、壁を見つめる。
「数日前、小さな街が地震と川の氾濫に遭った、って話をしたね」
 ささやかれる助祭の言葉にも答えずに。
「そのとき、見慣れない子どもらを見た、って噂が伝わってきてる。一人は負傷者を助け、また一人は川の氾濫を引き起こした、って……君らだね?」
「俺は氾濫を起こしてない!」
「わかってる」
 思わず荒げた声に、助祭はやんわりと答えた。
「でも、人々にとってはそうなるんだ。君達が早くその場を離れて正解だった。長く留まっていたら、大変なことになっていた」
「なんで、忌み嫌うの?」
「さあな、昔むかーし、何かあったんだろうな」
「知ってるんだろ?」
 助祭は、答えなかった。








□□
 セトリウエ司祭は、馬を馳せ二日で戻ってきた。元の持ち主に馬を返し、翌朝早く、一行は再び王都へと続く門扉の前に立っていた。
「名と、用件を」
 降ってきた短い声に、司祭は張り上げた声で応える。
「わたくしはアルシャインより参りし、セトリウエ・ジェイルフェイエ・イル・ガイア。大司教猊下への謁見を請う」
「中へ」
 声とともに、大きな門扉は開かれる。セトリウエ、イエリア、ルディオ、ヴァイル、レオン、そしてエウディン助祭が続いた。助祭が門をくぐると、その扉はひとりでに閉まりゆく。



 通されたのは待つための部屋。床は綺麗な楕円で、模様の入った大理石が紋様のように敷き詰められていた。彎曲した壁に添って石造りの長椅子がつくられていて、すでに何人かがそこに静かに座って順番を待っていた。空いていた席に、セトリウエ、イエリア、ルディオ、レオンは腰を下ろす。エウディンは、一度ぐるりと見渡してから、座った。ルディオは隣に座った竜の子が、上を見上げているのに気付いた。
「あれは……」
「絵だよ、本物の空じゃない」
「でも、似てるね」
 本物の太陽かと見まごうほどのまぶしい白い円が、青空のなかにくっきりと描かれていた。高い位置にある手すりからこちらを見下ろすのは、背に翼を生やした者達。見事な天井画が描かれた半球は、さながら真昼の空の下。その絵画とも彫刻ともつかぬ空を見上げながら、レオンはそっと故郷ベテルギウスのことを思った。
 先に部屋にいたものが、順々に名前を呼ばれ、奥へと入っていく。後から部屋に来るものが増え、先にいたものがすっかりいなくなると、イエリアは急に緊張してきた。
「今度は、大丈夫ですよね」
「今度は司教さまの紹介状があるからね」
 短い髪を揺らし、セトリウエ司祭は若い聖職者にそう答えた。夜通し馬を走らせ疲れているはずなのに、その疲れを微塵も見せない表情で。
 そのとき、静謐な風が、待ち合いの間を抜けた。
「ジェイルフェイエ・イル・ガイア」
 名を呼ばれ、司祭は立ち上がる。続こうとしたイエリアを抑え、一人奥へと向かう。すぐに別の者がやってきて、一行を立たせると奥へと導いた。謁見の間の前室で、セトリウエ司祭は待っていた。
「ここより先は、私達は入れないんですって」
 不服そうに、彼女は言う。
「達は、ってことは、じゃあ俺も?」
「そう、助祭も、残って」
 不安そうなイエリアの背を、押したのはレオンだ。
「行こう?」
「うん」
 イエリアは、正面に立ち塞がる扉に手を置き、そっと祈りを唱える。
「大地なる女神よ、その地に育まれし者に道を示したまえ」
 扉がふんわりと輝きを帯び、そして開く。入る前の一瞬、振り向けば、エウディン助祭の淡い赤の瞳が、険しくなったのを見た。
(気を引き締めなくては)
 きゅっと紐を結ぶように、緊張を解かないように。イエリアは扉の向こうに一歩踏み出す。レオンが、ヴァイルが、ルディオが続いた。まぶしい光の向こうに、謁見の間がある。



 大広間を、床に敷かれた敷物に導かれるように4人は進んでいった。磨かれた大理石は水の表面のような滑らかさで、天井に描かれた荘厳な神話を映し出す。神話の海を渡っていき、三段の階段がある手前で、イエリアは止まる。目の前には、薄い絹のカーテンがかかり、いるはずの大司教の姿は見えない。
 それでもそこにいる誰かに向かって、イエリアは言葉を紡ぐ。
「初めてお目にかかります、大司教さま」
「お前は?」
 戻ってきた声に、その神々しいほど深く威厳のある声に、どこか安堵を覚えながらも、名を紡ぐ。
「ロエイオ・セフェナージェが娘、シェリアクの聖カレルナシェリス神殿に仕えております、イエリアと申します」
「ほう、ロエイオの娘か。……お母さまはお元気?」
「はい」
「ではイエリア、聖カレルナシェリスから、何を託された?」
 イエリアは、下げていた鞄を開け、中から小さな包みを取り出した。土に投げ出され雨に濡れ馬車でさんざん揺られたというのに、包みはどこも傷つかず、渡されたときそのままの状態で、イエリアの手の上に乗せられる。
「こちらへ」
 うながされてイエリアは三段の階段の一番下に足を駆けた。絹の簾の向こうで誰かが動く。
 薄いカーテンが開く。
 ゆったりとした赤のマントを羽織り、波打つ美しい髪をそのマントの上に長く垂らし、顔に化粧を施した女性が、笏を持った右手と、何も持たない左手でカーテンを押し開き、姿を表す。
(大司教さま……!)
(この人が?)
(綺麗な人だね)
 イエリアの息を飲むつぶやきに、ルディオとレオンは同時に答えた。
 大司教は厳かな仕種で階段を一歩降り、右手には笏を抱えたまま、両の手を伸ばした。イエリアの手から丁寧に包みを持ち上げて、胸元へと持っていく。それからゆっくりと後退した。その動作にイエリアはつい見とれた。
 大司教はその場で包みを開き、中からこぼれでるような光りにはっとして、すぐさま包みを頭上へ放った。
「あっ!」
 声をあげたルディオの口をイエリアは慌てて塞ぎながらも、その光景に思わず見入っていた。
 天井近くに飛ばされた包みが放物線を描きながら天に達すると、そこからゆっくり落下しはじめる。包みの開いた口から幾筋も光りが溢れ、幾十もの小さな滝のように、輝く速い流れが床に落つる。次から次へと、輝きの雨が床に降る。
 水が跳ねるように、輝きが床を打つ。すると跳ねた輝きは細かく砕けて、そのひとつひとつが真っ白な翼を持つ鳥となって、周囲を駆け巡り始めた。
 光が、さらさらと澄んだ音が、大広間全体を満たしていく。飛び交う鳥の姿は床にも映し出され、まるで足の下をも飛び交っていくよう。それはさながら水の中で銀の鱗を持つ魚の大群に出くわしたかのよう。
 幻想の中、大司教の声が響く。
「イエリア、お前は、自ら望んでここへ?」
「はい」
「そう、聖カレルナシェリスのカランディール高司祭は、そんなお前を助祭にしたいそうだ」
「助祭に?」
 大司教は、階段を降り、イエリアの正面に立った。右の人指し指と中指を合わせ小さな聖職者の額にそっと触れる。
「女神が躯なる大地を九つの月が一巡するように、修業の旅に赴きなさい。イエリア・セフェナージェ・レン・ガイア」
 浴礼を受けたものに与えられる称「レン」を入れて、聖カレンタアンタレスの大司教はイエリアの名前を唱えた。
 イエリアの額に触れていた指をそっと離すと、大司教のその指には手のひらほどの丸い金鐶が揺れていた。鐶を指から外し、イエリアの右手首にそっとはめて、大司教は微笑んだ。周囲を舞っていた輝く鳥達が、やおら消えていく。
『長い、旅になるでしょう』
 仕えた神殿の高司祭の声が、頭の中に蘇る。あのときすでに自分の行く先は決まっていたのだと、気付いた。
 振り返れば、白い聖職衣にも似た服を着せられたルディオと、レオン、それから目には見えぬけどもエルフのヴァイルがいる。レオンの水色の眼差しが歓迎の意を伝え、ルディオのその茶色い瞳がイエリアを誘う。
「ようこそ、世界一周の旅へ」
 力強い少年の声が、大広間を抜けていった。








―――我々はここに記す
   あまねく輝く星々のもと
   我々が地上へ降りた証


   柱を以て創られし青き海
   大地の女神 その身を広げ
   9つの大地とならん


第5話「大地の神の地」完

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