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在り
Wh


ereabouts of themselves


 10年前に地図から消えた街、ラセルタ。
 炎の傷跡を醜く残して、その街は名を留めた。








□□
 森に入り込んだ人間の、茶色い瞳が開かれる。
 視点の定まらぬ眼差しが現実世界をとらえ、ルディオ・ハーディははっとした。覚めやらぬ意識を強引に現実に引き戻すと、視界が急に開けてくる。次第にはっきりしていく意識とは逆に、見ていた夢の内容を急速に忘れていく。
 いつの間にか、大樹に背を預けていた。そのままもたれかけていると妙に居心地がいい。ずっと眠っていたい気にさせられる。だが、ここは自分の慣れ親しんだ場所ではないと、思い出す。
(俺、どれくらい眠ってた?)
 習慣的に見上げた天井に空は無い。
 ここは人間界ではないのだと、頭上を覆う樹々の枝葉が告げる。やわらかい光が、枝の先を追うようにずっと上のほうにわだかまっているのが見える。それだけだ。陽も星もない。今が昼なのか夜なのかさえわからない。
 わきで音がして、そのほうを見やればすぐそばにダークエルフのヴァイルがいた。褐色の肌に、暗褐色の長い髪に、深い紅の瞳のエルフ。
「あまり深追いするな。取込まれてしまうぞ」
「何の話だよ?」
 ルディオが身じろぎすると、その肩や足に降り積もっていた葉が滑り落ちて、地に触れかさりと音を立てる。ヴァイルはその赤い瞳を細めて、言った。
「夢を見ていただろう?」
「ああ見てたよ。もう覚えてないけど。それがどうかした?」
「それはこの森の樹々が見せた夢だ」
「樹が? まさか!」
「長き命を持つゆえに、やつらは時間の流れに無頓着だ。己と他人の記憶の区別もつかない。だから夢を見せるのさ。たとえば過去の出来事を」
「……それが、何だって言うんだよ」
 不意に心が冷めた気がした。
 心のどこかで沸き上がる憤りを抑え込んで、ルディオは言った。
「樹が過去を見せるから、俺がそれを見たくて深追いした? まさか!」
 ルディオが立ち上がる。身体に積もっていた葉が落ちて舞う。人の子の茶色い眼差しがヴァイルを見据えた。
「やっぱり俺、レオンとプアジェを追い掛ける」
「止めておけ」
「自分が無くした過去を追い掛けてるよりずっといい!」
 叫ぶか早いか、ルディオが駆け出す。
 すかさずヴァイルが手を伸ばすも、その腕をするりと抜けて、ルディオは走った。その姿がすぐに遠くなっていくのを見ながら、しかしヴァイルは追い掛けようとはしない。落ちた葉が再び舞うなか、足音が遠ざかっていった。やがてその場に、ダークエルフは一人残される。
「樹は、夢を見せる……あるいは未来の出来事さえも」
 人間の子どもが何を見たのか、ヴァイルは知らない。
 だが自分が見た夢が、過去に起きたどの出来事とも違うことだけは、わかった。
「叶わなければよい夢も、あるということだ……」
 忌々しく吐かれた言葉が、時間の流れに無頓着な樹々の合間を流れていく。夢の中で滅びようとしていたのは、自分の種、ダークエルフだ。ここから離れたところにある、故郷たる闇の森だ。
(森よ、光の名を抱く古郷よ、お前もいつかは朽ちるのだろうか?)
 一葉たるエルフのその問いに、全なる森の答えは無い。






□□
 知らない森の道を、慣れない地面を走っていく。ときおり足元がふらついた。踏みしめた枝が悲鳴をあげ、葉が舞った。ルディオはかまわず走った。
「レオン! プアジェ! どこにいる!」
 呼ばう声に、応える声は無い。
「レオン、いるなら答えろ! プアジェ!」
 どれが道なのかもわからず、ただ闇雲に走る。
 やがて息が切れ、目がかすむ。
 そんなことは、しかし珍しくなかった。シリウスで一人で練習していたときも、そうだった。
「レオン! レオン! 見えてるんなら、何とか言えよ!」
 木の根元に蹴躓いて、バランスを崩してつんのめる。二歩、三歩とよろめいて進み、かろうじて体勢を取り戻す。ルディオは立ち止まった。
 息がつまり、乾いた目から涙がこぼれる。肩を上下させ、やっと息をしていた。
「はあ、はあ、はあ……ったく、どこ行ったん……だ!」
 ルディオは右手を真上にかざした。
 思えば、初めからそうすればよかったのかもしれない。
我が燃ゆる炎!
 とたん、火焔が立ち上った。ルディオの右手のなかにうまれた炎が、高く、昇ってゆく。
 樹々がつくる天井に、炎が触れた……かのように見えたとたん、炎が盛大に煌めいて、光となって霧散する。
「なんだ?」
 右手を頭上にかざしたまま、上へと目を凝らす。直後、上方でわだかまっていた光が、一気に下降を開始した。瞬く間に光は降りてきてルディオの右手に絡み、そのまま身体全体を取り囲む。金縛りにあったように、ルディオは動けなくなった。
「なんだよ、これ!」
[貴方は何をした?]
「は?」
 誰もいないのに、声がした。聞いたことのない声、たとえて言うならばエルフのそれのような、不思議な音。
「今、誰かなんか言ったか」
[貴方は何をした、と、問うたのだ]
「誰だよ?」
[答えろ、人の子よ。貴方は我々に何をした?]
(エルフ? それとも森自身か? なんで俺に声が聞こえる?)
 いぶかしがりながらも、ルディオは教えてやった。
「火のことを言ってるんなら答えはこうだ。仲間に合図をした!」
 とたん、金縛りが解けた。声が、消え、解放されたルディオはその場に立ちすくむ。
「……なんだよ?」
[ならば貴方を届けよう、貴方の「仲間」のもとに]
 そしてまた光が溢れルディオを包み込む。やけにまばゆい光を直視できずに目を瞑る。しかし光は止まない。目蓋を閉じていてさえまぶしい。
(あれ、なんかこれ前にも……)
 記憶をまさぐる前に、意識が途切れた。

 長い間気を失っていたのか、それとも一瞬後なのか、とっさにはわからない。
 ただ、ルディオは感覚的に、さっきとは違う場所に立っているのだと、気付いた。
 目の前をゆく、二つの影。
 それはレオンとプアジェのものだ。
「……!」
 だが色が違う。くすんだ水色をしているはずの竜の子の髪は白っぽく、金色の輝きを持つはずのエルフの娘の髪は綺麗な青だ。声をかけられずに言葉を失ったまま、ルディオは伸ばした手で空しく宙を掴む。
 しかし気配に気付いたのか、二人がゆっくりと振り返った。その顔を、ルディオは思わず凝視した。
(かたちは間違いなくレオンとプアジェなのに……)
 感情の読み取れない白い瞳が、海の深みを思わせる鮮やかな青の瞳が、動きを失ったルディオを見つめ返す。
「追って、来たのか人の子よ」
「約定を知らぬ人の子よ」
 同時につぶやかれた言葉は、どちらも聞き取ることはできた。だが、その低い音程に思わず身の毛がよだつ。
「お前らは、何だ?」
 恐怖ではない。好奇心でもない。ただ純粋に、答えを知りたくて疑問を口にする。
「レオンでも、プアジェでもないな?」
「だとすれば、如何する?」
 レオンの顔で、プアジェの顔で、対する二人は不敵な笑みを浮かべる。
「我が名を聞きたくば、汝が名を証せ」
「俺は、俺、は……」
 その瞬間、心の奥で何かがぞわりとしてルディオは口をつぐんだ。名前を言ってはいけないと、本能が告げる。
(なんでだ? 俺の名前が、なんなんだ?)
 不意にエニィの顔を思い出す。名乗ったとき、それは名前なのかと彼は問うた。
(名前じゃないなら、なんだっていうんだ?)
「俺は、……我が名は、
 魔術師たちの使う言葉で。その名を言うなと、導師は言った。しかし言わずにはいられなかった。
我が名は、セファル・ホーシズ
 場に訪れるは沈黙。
 きぃぃぃぃん、と、まるで耳鳴りのような。硬い金属同士が打ち合わされるような、乾いた音が耳を抜けていった。
 重たい風が抜けていった。
 一瞬、セファルの怒号がルディオの脳裏をかすめた。あとに残るは無言の戒め。言葉で言われるよりきつい師の激昂。
 だがそれ以上、何かが起こる気配はない。
「……そは偽りなるぞ。汝が名、証されざるなり」
 プアジェの身体を借りた何かが、低い声で言う。
「ゆえに我らが名を告げること能あたわず」
 レオンの身体を借りた何かが、そう断言し、一歩前に出た。
(なんだ?)
 更に一歩、前へ。
 ルディオは身構え、呼吸を整えるべく息を吐いた。
 更に一歩。
 ルディオは何かを唱えられるよう、軽く息を吸う。
 更に一歩、進んでからレオンの姿をしたそれが右手を挙げた。
「そこまで、だ」
「……!」
 ルディオは、動けなかった。
「瞳を閉じよ、光を忘れろ。汝が知己を返そう」
 レオンの姿をしたそれが、厳おごそかに言う。逆らおうとしても、逆らえない。自然に目蓋が降りていく。

 はっとして目を開けたとき、ルディオはそこに、竜の子レオンと、エルフのプアジェを、認めた。
 くすんだ水色の、空色の瞳と髪のレオン、流れるような金色の髪と輝く瞳のプアジェが、そこにいる。
「ルディオ!?」
 二人が声を合わせて名を呼ぶ声に、力が抜けて座り込む。
「なんなんだよ、お前ら……」
「それはこっちの台詞だわ!」
 プアジェがその綺麗な旋律で、憤慨したように言った。
(その声だ)
 安堵に身を任せ、ルディオが座りこんでいると、プアジェがつと後ろを振り返る。
「どうしたの?」
 レオンの問いには答えずに、プアジェがくるりと向きを変え、ふらふらと歩き出す。
「プアジェ! どこ行く!」
[私帰らなくちゃ]
「プアジェ?」
 先端のとがった長い二つの耳の間で、金色の髪が煌めく。輝く髪が背で踊り、そしてプアジェの姿が不意に消える。レオンは目を凝らしたが、その姿はどこにもない。
「いないよ、見えなくなっちゃったよ」
「レオンの視力でさえ見えない?」
「見えないというか、存在が感じられない。ずっとそばにあったのに……」
「何か、言ってたか?」
「帰らなくちゃ、って」
 光の森、それはエルフ達の聖域だと言う。
(まさか、聖域に戻った?)
 レオンを振り返ったルディオは、竜にとってはここは聖域でも何でもないことを見てとって、少しだけ安心した。プアジェに続いてレオンまで急にいなくなる心配は、少なくともしなくても良さそうだった。








□□
 透き通るような薄い色の肌と金色の髪、金色の瞳を持つエルフが、森の中を翔ていく。小さいのも、年を経たのも、みんな。
 プアジェはその流れの一つに合流した。
 身を走る不思議な感覚に導かれるように、皆が走っていく。
 その先に待つのは、聖なる泉。
 不思議な柱が天へと伸びた、妖精達の命の源。
 プアジェは、自分がエルフであることを無意識に感じ取っていた。長い寿命いのち、優しい風に包まれた身体いのち、森のなかの一葉たる小さな魂いのち。森に生まれ、森に育ち、やがて森に還る、自然界の生いのち。周囲を走っていくすべてのエルフがそうであるように。
 体が不意に軽くなる。金色の髪を風がなでた。その身を流れる澄んだ水が、命の源に共鳴している。時間の流れを忘れかけるほどに長い長い時を生きる、樹々の歌声が身を満たす。








□□
 褐色の肌に暗褐色の髪、赤い瞳を持つエルフが、森の中を駆けていく。小さな背丈で、年を取りやすいエルフが駆けていく。
 ダークエルフのヴァイルは、光の森のなかを外界に向かって進んでいた。
 数多のエルフとすれ違うも、彼らはヴァイルに気付きはしない。それは異なる道を選んだせいか、それとも。
 不意に、何かが胸を圧迫した。
 息が詰まるような苦しさのあとに、胸がすうっとしていく。
 森の出口に差し掛かったとき、一度だけ、ヴァイルは振り返った。
 光の森のエルフよりも短い命を抱くダークエルフの眼差しが、真まことの古郷たる光の森の中心部に向けられる。
(森よ、守り手の多き古郷よ、お前は決して朽ちはしない)
 一葉たるエルフのその願いに、全なる森の答えはひとつ――それはいつの世も変わらずに在り続けた姿。








□□
 道案内をしていてくれたエルフがいなくなり、竜の子と人の子は互いの顔を見合わせた。
「どうしようか、ルディオ?」
 竜の子が問わば、
「レオン、道知らないの?」
 人の子が困ったように応える。
「ヴァイルもいないし、これじゃ出口がわからないな」
「呼んでみようか?」
「どうやって?」
 レオンは目を閉じ、心を澄ます。空を思い浮かべ、自然に近い意識になってヴァイルの名を唱える。しかし応える声は聞こえてこない。
(もう少し、もう少し……)
 レオンが意識を集中させている間、ルディオは周囲に目を光らせていた。だから、森の異変に気付いた。錯覚ではなく、森の樹々が手を伸ばしてくる。
「レオン!」
 言ったときには、遅かった。森が伸ばした手が、レオンに触れ、その身体を包み込む。レオンを助けようと飛び出したルディオもまた、伸ばされた森の手に絡め取られていた。
「レオン!」
「大丈夫だ!」
 それが森の、あの小さなエルフの娘の優しさなのだと気付いて、竜の子は素直にそれを受け入れる。暖かな光が辺りに満ちた。眠気を催す、やわらかな光が辺りを覆う。ルディオもまた、それに意識を委ねていた。
 自分の記憶とほかの誰かの記憶が入り乱れて、境がなくなって、曖昧になる。おぼろげな影を追ううちに、夢のことを思い出していた。街が燃えていた、海の風に煽られて。その街の名は、ラセルタ。
 10年前に焼かれた街、ラセルタ。
(俺がシリウスに来たのも、10年前だ……)
 それより以前、自分がどこにいたのか覚えてなかったけれども。
 この数字の一致が真実を示すのなら、それは。
(そうか、俺はラセルタの……)
 意識が白濁としてきて、そこで途切れる。








□□
 最初に目を覚ましたのは、ヴァイルだった。長い暗褐色の髪が、外の風に吹かれ揺れる。
 森にすっと手を差し伸べて、それから引いた手を胸に寄せる。それはエルフの挨拶の仕種だ。
(この胸の重みを、今は感じることのない息苦しさを、あの娘は抱えていた?)
 金色の瞳で歌うエルフの娘の顔を思いうかべ、森の中で声をかけてきた若いエルフの男の顔を思い浮かべる。
(……知らないことがいい事実ばかり、私に)

 入ったときとは違う、光の森の出口に、3人はいた。竜の子レオンに、人の子ルディオ、そしてダークエルフのヴァイル。プアジェが帰っていった森は、外から見ればただの広大な緑にしか見えない。
「振り返らない!」
 3人は声を揃えてそう言った。
 頭上には空が広がっていた。空竜の嗅覚は敏感にその懐かしい匂いを嗅ぎとって、海が近いことを告げる。レオンが嬉しそうに笑った。
(振り返らない。戻らない、ラセルタには)
 地図から消えた街を思って、しかしその場所への思いを断ち切って、ルディオは前を見据えた。
 森の樹々が見せた夢を、頭に焼き付いて離れないそれを思って、しかし振り払って、ヴァイルは進み出す。
(意思は私の中に)
 ヴァイルは竜の子を見やった。空色の髪が揺れる彼もまた意思を抱く者だ。
「行こう」
 今度はレオンが先頭に立った。3人は、その先にあるだろう、人の営みに向かって歩き出す。
 振り返らない、この道のり尽きるまでは。



第4話「光の森」完

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