幾つ
Foもの名を持つ泉
untain Spica
森の深淵に隠れるように、静かに泉はあった。
アルタルフはその濃い青い瞳で、アルファルドはそのくすんだ白の瞳で、足元に広がる泉を見下ろしている。
軽く握りしめた手を、泉に向かってそっと伸ばすアルタルフ。手の甲は天に向けられ、握られた指は地に向けられている。風も無いのに、青い髪が少しだけ揺れる。
「森に棲まいしもの達よ……見せよ」
指をさっとひらく。
「礎いしずえを」
にわかに、水面が輝きはじめた。
透明な水面みなもに、金色の光が満ちあふれる。泉のなかから数多のエルフが姿を現す。泳げないはずのエルフが、風のなかを舞うように軽やかに身を踊らせて、また泉のなかへと消えていく。
きらきらと光の流れる音がした。
流水を伝い流れていくのはエルフ達の旋律。世界に働きかける力を持つ、聖なる妖精族の言ことの葉。
ことばは心象をもって物体と為す。
エルフの音が創りだすのは、礎――すべての基盤なるもの。
そして歌が止む。
泉の輝きも森の輝きも消え、辺りを暗闇が覆う。
輝きを失っていく泉に目を凝らせば、その中ほどに、小さな「島」ができていた。
「我ら万象知り得ぬ者なりしかば、晩鐘ぞ鳴らさざるなる……」
アルタルフが言葉を紡ぎはじめる。合わせた手のなかに、淡い青の光がうまれる。ぼんやり広がった光がやがて収縮し、凝縮されてひとつの石をつくり出す。アルファルドはそれを受け取り、泉に一歩、足を踏み出した。
足元に輪が生まれ、広がっていく。
波紋を水面みなもに残しながら、アルファルドが「島」のほうへと渡っていく。
エルフの創りし大地にたどり着いて、アルファルドの手が石を落とす。
青い石が転がっていく。
アルファルドはゆっくりと詠唱しはじめた。暗闇と静寂が包む大気の中、その低い厳かな声が谺こだましていく。
冷たい石が光を帯びる。丸い光はやがて、上部の一点に集まり、束となって上へ伸び始めた。上へ、上へ。樹々を抜け、森を抜け、夜空を貫く一条の光となる。細い光はそして、徐々に膨らんでいく。まるで柱のように。
アルファルドが詠唱する声を速めた。すると光の柱が、その根元のところから色を変えていく。エルフの創りし大地を媒体に、石のように硬い、質量を持った柱へと変化を遂げていく。
そうして泉の中ほどに建てられた柱を、岸辺に立つアルタルフは見つめた。手を、柱に向けて伸ばす。
同時に詠唱をはじめると、青く滑らかな光の布が、そこから創りだされていった。光の布は柱に絡みつき、次第に表をすべてを覆っていく。
光の布が完全に柱を包み込んだとき、アルタルフは力を解放した。青い光が石の柱に溶け込み、柱全体が青い輝きを発する。紋章のような模様が、その表面に表れる。
アルファルドは目の前で発光する柱に添うように、両の手を天へと掲げ、一言唱えた。光に満ちた力が解放される。
柱を覆う光が、ふっと輝きを失う。それは、黒く刻み込まれた紋様となって表面に残る。
再び湖畔に静けさが戻る。アルファルドは岸辺に立つ、アルタルフを振り返った。アルタルフがうなずいた。
2つめの「柱」が、完成したのだ。
□□
樹々の話し声が聞こえたような気がした。
森に飛び込んだあと溢れた光は、今は無い。
ルディオは天を見上げた。頭上は樹々の枝葉が覆い被さるように空を隠している。星も月も陽も見えはしない。
(あれからどのくらい経つ?)
時間感覚が完全に狂っていた。森に飛び込んでからどれだけ過ぎたのか、あるいは全然過ぎていないのか、わからない。
ただ目の前には、海が広がっている。
光の海。
対岸は光のために見えない。水が透き通っているのに、輝きのせいで底も見えない。
「すげえ……これが、泉?」
「そうよ」
意識のないレオンを引きずりながら、プアジェが水の中へ入っていく。
[生命の源よ……]
ささやきは、泉の優しさによって報われる。金色の輝きで、泉がレオンを包み込み、水の上に浮かべた。プアジェは手を離して、静かにレオンを見下ろす。
「ルディオ、怪我してるんでしょう。治してもらえるから、入って」
「あ、うん」
ルディオは怪我をした右手でそっと水に触れた。冷たくはない。かと言って温かいわけでもない。まるで空気のように軽くやわらかい。何もないようなのに、それでいて触れたところから波紋が広がっていく。
輝きの水に触れた火傷は、ゆっくりと癒されはじめる。ちりちりとした痛みの代わりに、傷のところだけが暖かくなって、皮膚が再生していく。
「すげえ、治ってく……!」
ルディオはしゃがんだまま、傍らに立つヴァイルを見上げた。ヴァイルは水に触れようともせずに、泉の縁に立ち尽くしたまま、遠くのほうを見ている。
(何があるんだ?)
目を凝らしても、ヴァイルの視線の先にあるものは見えない。
ヴァイルは先ほどまでの険しい表情が嘘のように、懐かしむように森を、泉を、見つめていた。
「ん……」
「レオン!?」
プアジェの前で、傷だらけの竜の子が、そっと目を開けた。すべての傷は癒され消えかかっていた。開かれた眼差しに、空色の竜の輝き。
「レオン! よかった……!」
「え……なに、僕浮いてる!?」
レオンははっとして、起き上がる。
「ここは……?」
「光の森よ、森が助けてくれたの」
プアジェが答えれば、
「光の森の聖なる泉。精霊たちの始源の地。輝ける木々の生命の泉」
何かの詩のような文句を、朗々とヴァイルが唱えた。そして心の中で続ける。
(古代の邪竜を退けた力。すべての妖精を慕う光。……ならば何故、我々は行かなければならなかった……!)
□□
傷を癒してくれた泉を離れ、4人は森の中を、外の世界へ向かって歩いていた。やわらかい淡い光が4人を包み込んでいた。自然界の命を知らないルディオだけが、そのなかで不安を覚えていた。
「道、わかるの?」
「ここはエルフの聖域だぞ」
先頭をゆくプアジェの代わりにヴァイルが答える。
「景色がずっと同じだ。どうして進んでるって言えるんだよ」
「これが同じに見えるのか? 樹々のどれ一つとして同じ姿をしてはいないぞ?」
「そうかなあ」
不意に、プアジェが歩みを止めた。後ろの3人が見ている前で、プアジェの流れるような金の髪が、濃い青へと変わる。
「プアジェ!?」
「行くな」
飛び出そうとしたルディオを、しかしヴァイルが掴んで止める。
「なにす……」
怒っているのではない、ただ真直ぐな、燃えるような深紅の眼差しに、ルディオは口をつぐんだ。
すぐそばで不思議な声が響く。
「追い続ける者よ……近きぞ」
その言葉に反応するかのように、レオンの髪の水色が洗い流されるように落ちて、灰色へと変わる。ゆったりとした動作で振り返ったレオンの瞳もまた、くすんだ白さ。
感情の読み取れない、そのただ無機質な色にびっくりして、ルディオは立ちすくむ。
「汝ら、此処を離れるな」
深い音でそう告げた何か。直後、プアジェとレオンの姿が消える。
追い掛けようとしたルディオはしかし、ヴァイルに掴まれていて動けない。思ったよりも強いその力に、ルディオはヴァイルを振り返って睨んだ。
「痛えよ」
ヴァイルは手を離さずに。
「なんだよ! 心配しちゃいけないのかよ!?」
「焦るな。待っていればいい」
乱暴に腕を振り払ったルディオに怒るでもなく、あくまで冷静に、ヴァイルは応えた。
「お前……何を知ってる? 何を隠してる?」
「……お前の知らないすべてのことをだ」
「わかった、教えてくれって言わない。でも、俺は追いかけるからな」
向けられた背に、ヴァイルは静かに問うた。
「何を知りに行く?」
ルディオは立ち止まり、顔だけで振り返り、無言で応える。ヴァイルが、ああ、とうなずいた。
「消えた記憶を知りに行く?」
「な……んで、お前がそれ知ってるんだよ!」
白紙の記憶を抱えた少年が、小柄な褐色の肌の妖精につかみかかる。
エルフは、その哀しみを秘めた深紅の瞳で、応えた。
「同じだからだ」
「同じ……?」
ルディオはぱっと手を離した。
(同じ?)
「お前……ヴァイルも、記憶が、無い?」
「お前の場合とは違うが、な」
ヴァイルはふいっと横を向いた。
ルディオは見えもしない天を振仰いだ。母の笑顔も、父の涙も、思い出せない、何もかも。
不意に2人を、急激な眠気が襲った。それに抗あらがえずに、瞬く間に夢に落ちる。
□□
暗褐色の長い髪をなびかせて、褐色の肌のエルフが歩いていく。
ヴァイルは一人、森の中を歩いていた。かつて袂を分かったとはいえ、エルフのヴァイルにも森の道は見えていた。その道を、外の世界へ向かってあるいていく。
光の森は、ヴァイルを拒絶するでもなく、しかし話しかけてくるわけでも、なかった。
(同じだ……)
優しいはずの森を見上げて、ヴァイルがつぶやく。
森の道に、不意に一人のエルフが現れる。まだ若いエルフが、ヴァイルに近付いた。
[あなたは、闇の森のダークエルフだ]
[……]
ヴァイルに応じる気は無く、かまわず歩き続ける。
[ダークエルフが、光の森に何の用がある?]
[……]
[あの「柱」と、関係があるんだな?]
(……柱……?)
[ほう]
ヴァイルは、やっと、エルフのほうを見た。
[そういう事か]
[あなたは知っているはずなのに、伝えようとしない。何故だ。我々が異なる枝の葉だから?]
[知らないほうが幸せな事実もあるさ。知りたくば、森に聞け。私はもう思い出したくはない]
ヴァイルは若いエルフからさっと離れ、大気の精霊を呼んだ。
[シルフよ!]
風が巻き起こり、木の葉が舞う。エルフが戸惑っているうちに、ヴァイルは駆け出す。金色の髪を風に煽られ揺らしながら、残されたエルフは立っていた。
[同じだ。何故教えてくれない。ただ知りたいだけなのに]
ダークエルフが去っていったほうを見つめて、
[知らないほうが幸せな事実? そんなのあるわけない。それに……森は言葉を閉ざしたままなんだ。もう何百年も……]
樹々のざわめきは、森の心を伝えてこない。葉の歌う歌は、森の心を知らない。皆、無言だ。聖なる泉でさえも。
その若いエルフは、外界への道を知らなかった。誰も教えてはくれなかったから。
空とは何なのか、森の外がどうなっているのか、そんな事に思いを馳せながら、エルフは頭上に広がる枝葉を見上げた。
□□
街が燃えていた。
黒い影が、それを追うように怒号が、悲鳴が、飛び交う。
小さな子どもが、別の子どもに手を引かれて炎の中を走っていく。
母に抱かれた子どもが、泣く。(母さん……あなたは、何処だ?)
ぼんやりと炎を見つめる、茶色い眼差し。
おさまらない熱気に包み込まれた街。海からの風に煽られて炎は広がっていく。
はかどらない消火作業をあざ笑うかのように、炎がすべてを飲み込んでいく。