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セフ
Ce

ァル・ホーシズ
phal Horses


 船体が傾くたびに、右へ左へとよろめく。身体を支えるものは備え付けのベッドか、壁しかない。
 窓からは、慌ただしく行き来する人間達が見えるばかり。
「何があったのかしらね」
 窓枠にしがみつきながら、プアジェが言う。その綺麗な金の髪が、船が揺れるたびにはらりはらりと背から肩にこぼれる。
「あっち行け、ていう声がしてる。何かに襲われてるんだ、きっと」
 壁に耳をあてながら、レオンが答える。そのくすんだ水色の髪も、揺れて、背で踊って、乱れている。
 壁に沿って動いて、レオンがプアジェの横に並ぶ。窓に顔をくっつけると、ガラス越しに歩き回る人間達が見えた。その先に見える空の広さを思って、今いる部屋の狭さを思って。
(帰りたい……でも、まだだ)
 自分が歩き出した道の重みを思う、竜としての矜持は空を求めるけども。
 青い、空。どこからも自由で、そして何の支えもない。いるのは感じることのできない精霊達、すれ違っていく身を切る風。
 冷たい大気を思い出して、それを恋う自分の心を抑え込んで、レオンは小さな窓に区切られた空を見上げた。
 そして気付く。
(なにか、変だ)
 ひゅう、ひゅうとか細い、風の悲鳴が、聞こえる。
「あ……!」
 やがて竜の目は、空を飛び交う影を見つけた。
「見て、プアジェ」
「……あれ、なに?」
 鳥のような形をとる、黒く大きな影が幾つも、船の上空を舞っている。人間達がそれを追い払おうとしているのだと、二人は気付いた。
 そして同時に思い至る。
 ――ルディオが戻らない。
「何をしてるんだろう?」
「魔術師だから、たぶん」
 空を舞う影が、船の上空を旋回する。その船に乗る誰よりも長く生きてきた、竜と妖精それぞれの種族の子ども達は不意に思った。その黒い鳥は、この世界の匂いがしない、と。

 レオンは船室のドアに飛びついた。勢いよくドアを開く。とたん、強い潮の香が入り込んでくる。レオンが振り返る。
「行こう、プアジェ。ここにいたんじゃ何もできない」
「何をするつもり?」
「僕が」
 はっとして、プアジェはレオンの腕を掴む。
「だめよ、こんなところで竜になっちゃだめ!」
「じゃあ、どうやって」
「シルフに頼んでみる。だから、待って」
 プアジェが精霊の力を借りようと、深く息を吸ったときだった。
 今までにないくらい、大きく、ひどく船が揺れた。床が跳ね上がる。とっさに二人、何もできなくてバランスを崩す。ふらつきながらもすぐにレオンは立ち上がり、壁に激突しそうだったエルフの細い腕を掴み、引き寄せる。
「大丈夫?」
「ええ、ありがとう」
 声に重なるように、何か重たいものが水を貫くどぼん、という音がして、振り返れば盛大な水飛沫があがったところだった。
 ――ルディオはどこ?
 直感が、自然界に近い命を持って生まれた二人の脳裏をかすめる。
「プアジェ!」
「マーメイド達よ、そこにいるの? いるなら応えて、その人間を助けて!」
 森の妖精の声に、海から誰かが答えた、優しい音色を奏でる歌で、わかったわ、と。








□□
 短い茶色い髪をした、エニィ・オイヴと名乗った魔術師が部屋を出ていくと、プアジェが姿を現した。
「今の人よ、あの人が黒い鳥を追い払ったの。背筋がぞくってするくらい強い光りだったわよ」
 陸地から放たれた光りが、空を舞っていた襲撃者たちを一斉に貫いたのだと言う。
 そんな大きな魔術を、船員たちは自分に期待したのだろうかと、ふとルディオは思った。
「そういえば、レオンは?」
「外にいるわ。あの船の中、狭かったから、疲れたんじゃない?」
「疲れてるのに、外に?」
「あの子は竜だもの。外の空気の中にいるほうが休めるのよ」
 プアジェは言いながら、窓のある壁のほうに寄った。ガラスの向こうに揺れる樹々がある。プアジェは窓に手をつく。
「……これ、開かないわ」
「ちがうよ、上に押すんだ」
 ルディオが指摘してやると、プアジェはうなずき、窓の下枠に手をかける。小さな身体でも思いきり力を込めれば、なんとか窓枠が上がっていく。
「気持ちいいー!」
 風が入り込んでくる。プアジェがエルフ語で言葉にもならない歌を歌った。樹々のざわめきがそれに応え、長い髪が風に揺れ、透明な輝きに包まれる。
 部屋の中が、草の香と、そして強い潮の香に満たされる。

 プアジェが窓を開けるのを、ルディオは再びベッドに横になって見ていた。
 開け放たれた窓から風が入ってくる。その海の匂いを嗅ぐと、脳裏に船上でのことが蘇ってくる。悔しい思いが、まざまざと。
「あー!」
(なんでこう、上手く行かないんだろ!)
 船員達の期待に応えたという魔術師と、未熟な魔術しか知らない、己とを比べるまでもないのに。
 近くに優れた人がいるという事実が、どうしようもなく自分の卑小さを思い知らす。
 たとえばセファルという人がそうだった。決して嫌いではなかったが、なんとなく扱いにくい存在。それは彼が魔術師院の最高峰だったせいなのだと、今になって思う。師であるフェストと、よく話をしていた。だから師のところで、セファルと顔を合すこともしばしばあった。
 けれどいつも避けていた。
 あの何もかも知っているような顔が、それでいて優しい表情が、どうしようもなく苦手だったのだ。
 自分が何もできないとわかっていたから。








□□
 港に続く坂道に面した、名もない小さな宿屋は、こじんまりしつつも頑強な造りと、飾り立てることのない質素な内装が気に入っていた。
 エニィ・オイヴは、その宿の敷き居を跨ぎ、2階へと続く階段に足をかけた。螺旋階段を上っていくと、短い廊下が待っている。
 廊下の一番奥にある、自分の部屋に戻ろうとして、エニィはそこに立つ人に気付いた。
 それが、シリウスから来た魔術師だと気付くまでに、幾許もかからない。
「……ルディオ、だったっけ? どうした?」
「待ってたんです」
「…ん、俺を?」
「はい」
 エニィはポケットをまさぐり鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。綺麗に磨かれた飾り気のない鍵が一回転すると、ドアが開く。
「まあ、入りなよ」
 内側に開かれたドアを押しやって、それからそこに立つ少年を促うながす。
 ルディオは無言で部屋の中に入った。左右こそ違うものの、自分がいた部屋と全く同じ内装だった。ただしベッドは一つ、部屋の広さもひと回りだけ小さい。
 ルディオの背後でドアが閉まる。後から入って来たエニィは鍵をポケットに仕舞い込むと、ルディオを追いこして部屋の中まで行く。そのまま何気ない動作で、一番奥にあるベッドにすとんと腰掛ける。ふかふかの布団が沈んで、少しだけ浮く。
「セファルは元気か?」
 何気なく問いながら、相手が自分の緊張をほぐそうとしているのが、ルディオにはわかった。
「元気です。フェスト師……あ、俺の師なんですが、といつも何か話し込んでますけど」
「フェスト? ああ、あの爺さんか。まだ現役なのか」
 手厳しいんだよなあ、とエニィが笑い、導師を呼び捨てにしたその若い顔を、ルディオは見た。
(先生を知ってる? でもシリウスでは見なかったし――まさか、やっぱり他の師院の、導師……)
 心をしゃきっとさせる。師を見上げるのとは違う眼差しで、ルディオは口を開く。
「聞きたいことがあるんです」
 胸のなかのつっかえを、吐き出すように。
「俺は、10年前シリウスの魔術師院に来ました。みんなは知らないけど、勉強だって、練習だってきちんとしていた。でも全然上手くならなくて、小さいやつだってろくに使えなくて……」
「うん」
「だから……」
 一旦、ルディオは口を閉ざして、それから目を瞑って開いて、息を整えて。
「だから、自分は駄目なんじゃないか、って思うんです」
 息を吐く。
「それで、オイヴさんは、……その、どう思いますか。俺に才能があると」
「あ、待って、エニィでいいよ」
「エニィさん、俺に」
「いや呼び捨てでかまわない。うん、ええとね、」
 ごくんとつばを飲み込んで、ルディオは背を正した。
「君が何を言いたいのか、わからなくもない。ようするに自分の魔術師としての自信を俺に確かめたいわけだ?」
 ようするにそうです、と心の中でルディオは答えた。うなずくルディオを見て、エニィは不思議そうに、
「なんで、俺に?」
「すごい魔術を使った、って聞いたから」
「ほう」
 物珍しそうな声を、エニィはあげる。
「すごくも無いさ、魔術師をあまり知らないやつらの言うことだよ?」
 見たわけじゃないんだろ? と、エニィは笑って。
「ルディオ、魔術を使ったことは?」
「ある。あります、小さいけど……」
「じゃあ、魔術師だよ」
「…なんでそんな簡単に言えるんですか!」
 エニィは無言で、すっと右手を伸ばした。長袖から伸びた手の形は、何かを掴むように指先が曲がった、軽くひらかれた形。
「その右腕のものは、何だ?」
 ルディオははっとして、己の右腕を見下ろす。そこには、特殊な環がある、魔術師院で貰ったものだ。魔術師達が必ず持つ、魔術師たることを証す“証しの石”がはめ込まれた環。その青い輝きを持つ石は、師院を思い起こさせる。
「でもこれは! 導師についた人は全員が貰ってるから……」
「信用できないって?」
「……」
「それなのに俺の言葉を?」
「師は、俺に魔術を見せてくれなかった。厳しい人だってのは知ってる、でもそうじゃないんだ。俺には何も教えてくれないんだ。その人がくれた証を、どうして俺は信じられる?」
「でも俺の言葉なら信じられる?」
「信じたいんです」
(たぶんあなたも導師だから)
 魔術師のなかで、他者に教えるほどの力量ありと認められた者だけが導師の級を戴くという。年齢など関係ない、一生その名を貰わない人もいる、力が強い者すべてがなれるわけじゃない、ただ他者の力を、隠されたそれを見抜ける者だけが戴くことのできる称、それが「魔導師」。
「エニィ……の言葉なら、俺は信じられると思うんです」
 その言葉は嘘かもしれなかった。
 しかし本心かもしれなかった。ルディオは揺れる心で、エニィを見つめた。不思議そうな顔でルディオを見上げていたエニィは、やがて笑み、目を伏せ、笑った。初めてだよ、と、音もなく唇だけが動いた。
「そうだな、昔話をしてあげよう」
「むかしばなし?」
 ルディオの問いには答えずに、エニィが何かを小さくつぶやく。すると右手に明るい光りがぼうっと灯る。そして急に真顔になって、問う。
「魔術とは、何か?」
「……んー、学問?」
 迷いながらルディオは答える。
「そう、学問だ。特定の師に習う、自ら書を選び学ぶ、知り得たことを書に綴る。その繰り返しで身につくもの」
「知ってます、そう習いました」
「じゃあ、魔術を使う、とは何か?」
「使う? 古い言葉を唱えて、魔術を…展開させるってことですか?」
「まあ、そういうことだな」
 エニィは右手の灯りを消すと、立ち上がった。そのままベッドの縁に軽く腰を載せて、
「魔術は学問だと、魔導師達は言う。学び身につけるものだと。ならば問おう。なぜ、すべての人間が魔術を学ぼうとしない? 学んだ人間のすべてが、魔術師にならない?」
「……難しいから?」
「ちがう」
 何か悪戯を思いついた子どものように、エニィが楽しげな表情を浮かる。
「魔術は、誰でも使えるものじゃないから」
「え……?」
「誰もが知ることはできる、しかし誰もが使えるわけじゃない」
「どうして」
「“資格”が要るんだよ」
「資格?」
「そう、資格だ。有り体に言えば、“血の繋がり”ってことになる」
 エニィの手のひらのなかに、再び灯火ができる。ほのかな灯りがエニィの手を離れ、宙に浮く。
「ずっと、昔。そうだな、今からざっと1500年くらい前、神と契約を交わした人間がいた。その名を、セファル・ホーシズ」
「セファル!? だって、」
「そう、今の奴とは違うセファルだ。お前が知るセファルは、“セファル・ホーシズ”の名を継いだ者。世襲じゃあない、そのとき魔術師院にいる魔導師のなかで、もっとも相応しい者がその名を受けるんだ」
 宙を漂う淡い光が、ゆっくりと円を描いていく。
「で、その初代セファルは、神と契約した時、力を授かったんだ。”魔法”って力を」
「魔法? 魔術ではなく?」
「そう。“魔法”だ。しかしそれは初代セファルにしか使えなかった。だから彼は、そのすべての知識と経験を詰め込んだ技を、いや、術すべと言うほうが近いかな、具体化した形にして後世に残そうとした――“魔術”だ。学問と言われる所以ゆえんだね」
「でも、使えない人がいる、っていうのは」
「そこなんだ。何を考えたんだろうね、初代セファルは”自分の子どもらに”魔術を残すという契約をしたんだ。だから今、初代セファルの子孫ではない者達、言うなれば血の繋がりがない者達は、その神の恩恵を受けられない」
「あ、じゃあ……」
 ルディオは、鳥肌が立つのがわかった。
(じゃあ、ほんのわずかとはいえ、魔術を使える、俺は……!)
「そう、君は間違い無くセファルの子孫であり、残された叡智の使い手――魔術師だということになる」
 エニィがそうしめくくると、宙をゆっくり漂っていた灯火が消えた。
 まるでルディオが抱え込んでいた迷いが、晴れたことを示すかのように。
(そうだったんだ……俺は)
 ルディオは右手をぎゅっと握りしめた。右腕の環にはめ込まれた“証しの石”の重みを、今ははっきりと感じることができる。

「あの、どうもありがとうございました!」
 頭を下げたルディオに、ああ、とエニィは付け加える。
「今の話、他の奴には言うなよ。あんまり知られてないことなんだ」
(それを知ってるんだ、エニィは。じゃあやっぱり)
 後ろ手にドアノブを引き、ドアを閉めながらルディオは思った。
(どこか別の師院の導師なんだ……!)
 そんな人に秘密を分けて貰えたのが、嬉しい。

 シリウスから来た少年が出ていったあとの無人の入り口に、つぶやく。
「だから”魔術”は普及しなかった。こんな便利な力なのに」
 手のひらの上に映し出されるのは、遠い街の光景。
「まあ、君も俺も運が良かったって事かな。さてと」
 立ち上がって、ベッドの端に手を置いて、その手を見つめながら、ふと口をついてこぼれたものは。
「……っ! 俺も莫迦ばかだな、なんであんなこと言ってしまったんだろう……」
 そのつぶやきに込められたのは、幾許かの自嘲と、幾許かの後悔の念と、後戻りのできない幾許かの、決意と。








□□
 潮の香が駆け抜けていく坂道を、少年が歩いていた。珍しい水色をした長い髪が、風に倣うように背で揺れている。ベテルギウスの竜の子、レオンだった。
 匂いこそ違うけれども、風を浴びるのは気持ちいい。その自然で何気ない感覚が、レオンの空竜エアドラゴンとしての本能が、今すぐにでも大空に飛び立てと告げている。
(……でも、だめだよ)
 ここはヒトの街だからと、理性で本能を抑え込んで、けれど不意に、レオンは駆け出す。空を翔るように地を駆けていく。
 浴びる風が気持ちいい。
 潮の香が鼻をくすぐるのさえ心地いい。
 一気に坂を駆け上がると、そこに曲り角がある、曲がればプアジェとルディオのいる宿だ。勢いを殺さずに、回り込むようにして角に飛び込む。
 と、そこに人影。
「え?」
「……っぶなっ!」
 衝撃と、軽い痛み。曲り切ってからレオンは立ち止まって、すぐに後ろを振り向いた。そこにルディオがいた。避ける暇もなくぶつかって転んだ、ルディオの姿がある。
「あ、ごめん……大丈夫?」
「大丈夫だけどさ、いきなり走ってくるなよ、レオン」
 言いながら、ぱたぱたと埃を払ってルディオが立ち上がる。不安そうなレオンにもう一度大丈夫だと言ってから、
「急いでた?」
「……ちがうよ、ただ走りたくなっただけ」
 竜の子がそっと抱いた望郷の念に答えてか、風が吹く。潮くさい匂いの、海の香を運ぶ風が吹く。はるか遠く、“空竜の島”ベテルギウスをなでた波が、運んできてくれたかのような優しい風。
「そう、探してたんだレオン。もうすぐ出発だって」
「どこへ?」
「光の森。プアジェの故郷なんだって」
 故郷、か。
 レオンはつと空を見上げた。何千年も変わらない青がそこに待つ。



第3話「闇の夢」完

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