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悪魔
A.

の名
name of hell


 突然意識が戻るように不意に、ルディオは目を覚ました。
 与えられた船室でうとうとするうち、眠ってしまったようだった。分厚い縁のついた丸い窓から、外の青が見える。海の濃い青と、空の深い青。
「もうすぐ着くそうよ」
 柔らかい声がして、振り向けばエルフの娘プアジェがいた。丸太を短く切ってそのまま磨いたような、丸い椅子の上にちょこんと座っている。
「風が穏やかになってきたの」
 プアジェはエルフの言葉で歌うようにささやく。人間の耳には樹々のざわめきのようにしか聞こえないはずのその言葉が聞きとれるのは、魔術のおかげだ。
「俺、どのくらい眠ってた?」
「人間の時間はわからないわよ」
「……ちょうど1時間、てところだね」
 レオンは言い、
「レオンはわかるの?」
「って、さっき通った人が言ってたよ」
 わからないよと笑った。

 船が揺れているのがわかる。穏やかな波に身を任せるように、ゆったりゆったり揺られながら、進んでいく。
 ルディオは弾みをつけてベッドから立ち上がると、壁のほうに寄った。ベッドとは反対側の窓から、外の景色を見る。
「あー!」
「なに?」
「港だよ、船がいっぱい泊まってる!」
 色とりどり、形もみな違う、大小様々の船舶が停まっている。見えるくらいの距離に、すぐそこに、港が、陸地が見えていた――リゲル大陸が。
「すげえ、シリウスのとは比べ物にならない……!」
 そのシリウスの小さな港でさえ、数日前に初めて見たばかりだったと言うのに。
「これが、リゲル……」
 言い終わらぬうちに、大きな揺れが、船を襲った。とっさに手を伸ばすも何も掴めずに、バランスを失って、ルディオが派手に転ぶ。そのままごろごろと転がってベッドの裾に背をしたたかに打ち付けて、たまらずルディオはうめいた。
「大丈夫?」
 揺れる船室で、壁に背を預けながらレオンが言う。
「大丈夫」
 ルディオは答え、ベッドを支えに立ち上がる。窓を見やれば、外で船員達が慌ただしく走り回っていた。
 船の揺れはまだおさまらない。
「何があったのかしら?」
「俺、聞いてくる。レオン、それにプアジェはここにいて」
「うん」
 セファル導師がくれた灰色のマントをひっつかんで、肩にぐるりと回しながら、ルディオが飛び出していく。








□□
 南北に長いリゲル大陸の、西側の中央に位置する港町アルタイル。大規模な港を三つ所有する、活気溢れる街だ。そのアルタイル三港の一つ、タラゼド港が目前にまで迫り、シリウスへの連絡船の船長も、操縦士も、ほっと一息ついていた。あとはゆっくり港に入っていくだけだ。
 喫水の大きい船ならこすってしまいそうな浅い海域を両脇に、そこだけ深い細い航路を抜けていけば、港はすぐだ。
 港の手前で、航路は大きく右へ曲がる。そこからまた左に曲がり、そうっと湾内に入り込むのだ。
「面舵いっぱい!」
 航海士の声に、操縦士がすっと体を倒し、起こしがてらの勢いを借りて、渾身込めて舵を回す。
 からからと舵が回っていく。そのとき、甲板に影が落ちた。

「やつだ!」
 いち早くそれを確認した船員が叫ぶ。
 空には、黒い影が飛び回っていた。鳥のような翼を持つ、鳥とは思えないほどの大きな翼を持つ、なにか。
「くそっ、また来やがったか!」
「どっか行っちまえ!」
 甲板に転がっていた棒やら縄やらを拾い上げ、船員達はそれを振り回す。しかし上空を飛ぶ巨鳥には届かない。
 そのうちに、船が大きく揺れ始めた。
「まずいぞ、ここら辺は浅いんだ。こんな傾きのまま航路を外れたらこすってしまう!」
 操縦士が舵にしがみつきながら叫ぶ。
「どうして俺達ばっか狙うんだよっ!」
「あいつはいないのか?」
「行きに神官乗せただろ! だからあいつ乗らなかったんだ!」
「ったくこういう時に限って」
「誰かやつらを追い払える者はいないか?」
「無理言わんでください、俺達にできるわけないでしょう!」

 ルディオが甲板にあがった時、目の前を船員の一人が駆けていった。
「あの」
 声をかけようにも、その隙がない。見上げれば見たことも無い鳥が、何羽も空を飛んでいる。真っ黒で、無気味な影が、甲板を黒く染める。上下に揺れる甲板を這うように横切って、ようやく手すりにしがみつく。その隣で縄を結んでいた船員に、ルディオは聞いた。
「あの、あれは一体……?」
「あん? ああ、ぼうずか。何してるんだ、客は大人しく船員にこもってろ」
「でも」
「あいつらが来るとな、舵が狂っちまうわ波も無いのに船が揺れるわで大変なんだ! ここは危ねえ、黙って戻れ!」
「はい!」
 思わず威勢良く返事を返す。船員はそれ以上何も言わずに、あごでくい、と船室のほうを示した。とりあえず戻ろうと、ルディオが再び、甲板に手をついたときだった。
「おい、お前」
「?」
 目の前に、別の船員が立っていた。ルディオの前にしゃがみながら、彼は真面目な顔で言った。
「お前、確か魔術師ってやつだったよな?」
(……無理だ!)
 とっさに相手の言わんとしていることに気付いて、ルディオは心の中で悲鳴を上げた。
(俺にあいつらを追い払えって言うんだろ、そんなの無理だ!)
「魔術のひとつくらい、使えるよな?」
(ああ……)
「でも俺は、まだ子どもです」
 言い訳にもならないことを、口にする。
「ガキでも魔術師なんだろ? やつらを追っ払うくらい、朝飯前じゃねえのか?」
(そんなわけない)
 ルディオは唇をかんだ。子どもがそんなことできるわけない、って何故わからないんだろう。
「なんかこう、でっかい奴でさ、やつらを吹き飛ばしてくれりゃあいいんだ」
「でもさ、」
「魔術師ってのは、こういう時にこそその能力を発揮するもんだろう?」
「俺は、子どもだ」
「なんだよ?」
「無理だ、って言ってるんです」
 直後、それを口にしてしまった後悔の念にかられても、もう遅い。相手のきょとんとした顔が、長く続かないのはわかっている。船員の顔が、すぐにゆがんでいく。
「……てめえ、できないって言うのかよ」
「俺はまだちゃんと使えないんだよ!」
「役立たず! もういい、お前にゃ頼まねえ!」
 揺れる甲板に難無く立ち上がって、船員は駆けていった。
(役立たずで悪かったな!)
 そう言われたことに軽くショックを覚えながらも、心の中で言い返して、ルディオも立ち上がる。揺れに耐えながら空を見上げれば、巨大な鳥の影。
 彼らに向かって右手を伸ばす。
 ――なにか。
 なんでもいい、なにかひとつ、魔術を放ってやろうと決めて心を構える。
 大きな魔術は何一つ知らない。小さいやつだってろくに知らない。それでも、なにかあるはずだ。
 ――追い払う、鳥、空、宙に浮いたもの、追い払う、薙ぎ払う、吹き飛ばす、吹く……風、……風?
「それだ!」
 かかげた右手に意識を集中させる。思い描くイメージは、風。吹き荒れる突風。嵐の夜。
「“証”よ見せろ、風だ!」
 文法もめちゃくちゃに、古の言葉を紡ぐ。
 音はしかし、イメージを再現してくれずに、潮風のなかに消えていく。
「なんでだよ!」
 ルディオが悔しくて叫んだとき、一段と大きな揺れが船を傾かせた。足を滑らせて転ぶ、派手に転がった先に、手すり。細い棒と縄だけで作られた、簡易的な柵は、勢いのついたルディオの身体を受け止めてはくれない。
「しまっ……」
 気付いたときには、体は宙に浮いていた。
 放り出されたのだ、と、考え至るまでに数秒。
 次の瞬間には、背をしたたかに海面に打ち付けている。
「……!」
 痛みを感じる間もなく、冷たい海水がすぐに服に染み込んでくる。身体が沈み、口の中にまで塩辛い水が入り込んでくる。だからと息を止めてしまえば、叫ぼうにも声が出ない。
(誰か……!)
 レオンと、プアジェの顔が浮かんだ。
 送りだしてくれたセファル導師の苦しそうな顔が浮かんだ。
 厳めしい師匠、フェスト導師のときどき見せるほっとしたような顔が浮かんだ。
 同期の、ラースの顔が浮かんだ。
(ラース……)
 朦朧とする意識のなかで、誰か優しい人の顔が浮かんだ。しなやかで冷たい手が、ルディオを掴む。
(おん……な…の…ひと…?)
 それは誰だったろう。








□□
 突然意識が戻るように不意に、ルディオは目を覚ました。
 与えられた船室でうとうとするうち、眠ってしまったようだった。分厚い縁のついた丸い窓から、外の青が――否、そこに窓など無いことに気付いて、ルディオはがばりと上体を起こした。床の濃い茶色と、壁の深い茶色が見える。
「ここは、どこだ?」
 思わず声が漏れた。
 見渡せば、部屋にはベッドが二つ。一つはルディオが寝ているもの、もうひとつは丁寧に整えられているもの。そのほかに小さな机と椅子が一揃、備えてあった。宿か何かだろうか。
(でも……)
 自分が何故、こんなところにいるのかわからない。夢でも見ているのかと思って、ルディオが頬に手をやったとき、音がした。
 ドアが開く。
 しかし誰も入ってこない。不審に思って見ていると、ドアはひとりでに閉まった。
「誰?」
 言いながら、声が震えているのに自分でも気付いていた。ルディオは心臓がどくどくと打つ音が聞こえるような気がして胸に手をやりながら、
「……プアジェ?」
 姿を消したエルフだと思い当たって、恐る恐る聞く。するとすぐにプアジェは姿を現した。金色の長い髪から、長い先の尖った耳がのぞいている。子どもの背丈よりも更に小さい、森の妖精がそこにいた。
「驚かすなよ、プアジェ」
「それはこっちの台詞よ。気がついたらルディオ海の中なんだもん」
 その言葉に、自分の身に何が起きたかをすべて思い出して、
「俺、どのくらい眠ってた?」
「そうね、人間の時間でちょうど1時間、てところね」
 エルフがその綺麗な顔で笑う。
「私が助けなかったら、今ごろ魚に食べられてたわよ?」
「あ、プアジェが助けてくれたんだ?」
 記憶の最後にある、自分を掴んだ女性のような優しい手を思い出しながら、ルディオは言った。
「正確に言うと、私じゃなくて、マーメイド達なんだけどね。エルフは泳げないの」
「マーメイド?」
「海に棲む妖精よ。森のエルフ、海のマーメイド、地のノーム。世界のどこにだって妖精はいるの。みんな姿を隠してるから、人間が知らないだけ」
「へえ」
(じゃあ、あのときの冷たい手は)
 マーメイドという妖精のものだったのかと、改めて思い出しながらルディオは思った。
「それより、あの大きな鳥……」
 コン、コン。
 ドアをノックする音がして、プアジェは口をつぐんだ。とっさにルディオも身を強張らせ、待った。瞬間走る、緊張感。ドアは更に、二度叩かれた。
「入ってもいいかな?」
 知らない男の人の声がした。
 プアジェがさっと姿を消したので、ルディオがどうぞと答える。すぐにドアが開く。
 入ってきたのは、声から想像するよりも若干若い男の人だった。身にまとっているものが、どことなく魔導師達の着ているものに似ている。しかし黒い。全身を包む衣装はほぼ黒一色というデザインで、それがかえってルディオを落ち着かせた。
「おや、今、誰かいなかった? 話し声が聞こえたんだけど」
「別に、誰も」
 ルディオは慌てて首を振った。
「そう、か。邪魔したんならごめんな、と思ったんだけど。で、君があの船に乗ってた子どもの魔術師?」
「……そうですけど?」
 役立たず、と怒鳴られたことを思い出して、ルディオは少し凹んだ。自分でも嫌というほど実感した、あの船で何の役にも立たなかった。それどころか海に落ちてしまって、エルフやマーメイド達が助けてくれなかったら、今ごろ自分は。
「なら、悪い事したね」
 ルディオの気持ちを知るはずもないのに、若い男はそう言った。
「この前は俺が乗ってたんだ。それであの鳥みたいなのが出て来たとき、俺が魔術で吹き飛ばしたんだよ。だから船に乗ってたやつら、また魔術師に頼ろうとしたんだ。子どもでも普通の人間よりマシ、くらいに思ったんだろうけど」
 詫びるふうな口調に、ルディオは少しなぐさめられて、少し安心した。それで、その男が入ってきたに思った疑問を口に出した。
「魔導師、なんですか?」
「ああ、俺? いや違うよ、ただの魔術師さ。……そういやまだ名乗って無かったね、俺はエニィ・オイヴ。アルゴルなんて不吉な名前で呼ぶ奴もいるが」
「アルゴル?」
「まあ、ようするに不吉な名前だ」
 ようするに言いたくないのだと悟って、ルディオはそれ以上の追究を諦める。そして、自らも名乗った。
「俺はルディオです、ルディオ・ハーディ」
「……ルディオ・ハーディ? それ、名前なの?」
「え、なんでですか?」
「どっかで聞いたことある響きだな、なんだろう?」
(なんだろう?)
 自分の名前がそんな有名であるはずないから、きっと思い違いだと、ルディオは思った。
 しかし同時に、名前かと訊かれて動揺したのも確かだ。
 その名は、人から聞いたものだ。自分では覚えていなかった、名前。おまえはルディオ・ハーディだよと、言い聞かされて、育った。
 自分のものではないとしたら。
 それは誰の名前だったんだろう?



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