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         いざな
   なつかしきに誘われて




 L1コロニー群のCエリア1030コロニーに、少年はいた。そのコロニーに幾つかあった学校のひとつに、過去を偽ったデータで入学していた。学生は身を隠すのに絶好の条件だった。部屋を借りる時も学生証を見せるだけで身元が証明され、一人暮らしだからとその辺で働いていても誰にも何も言われることはなかった。

 少年は、その昔ガンダムに乗っていたことがあった。そのときのコードネームを「ヒイロ・ユイ」という。だがそれは20年以上前に暗殺された平和論者の名であり、指導者ヒイロ・ユイを覚えているコロニー市民も多いことから、今はもう使ってはいなかった。彼は無茶ばかりするくせに、目立つことが嫌いだった。

 そう、かつてヒイロ・ユイと呼ばれていた少年は、今ちょうど春季休業期間のため、自宅でふらふらとしていた。とくに仕事も入っていなかったので暇だった。することもなく、ヒイロは何の気もなしに部屋を出た。

 表のコロニーをあてもなく歩くのは、実に2年ぶりだった。あのときは冷たくなった子犬を抱いていた。がれきの中で拾い上げた子犬を、何処かに埋めてやろうと墓場を探していたのだ。そう言えば雪が降っていたなと思い出し、ヒイロは立ち止まった。いつの間にか公園の中にいた。見れば満開のサクラが、風にそよいで花びらを舞わせていた。

 地球の東アジアエリアの某とある列島の季節をなぞらえて、このコロニーには四季がある。今はちょうど”春”にあたり、休日ともなればサクラの樹の下で宴会が催される時期だった。人々はそれを『花見』などと呼ぶが、ヒイロにしてみればバカ騒ぎ以外の何ものでもなかった。

 突然強い風が起こり、ヒイロの短い黒髪をなでた。

「人工の風にしては、凝っているな‥‥‥」

 そのランダムさは、まるで地球したの気まぐれな風の中にいるようで、サクラの花びらが雪のごとく舞っているのを見ると、去年のクリスマスでの悪戦苦闘が思い出される。あのときは故障した人工降雨装置ウェザーレインを直そうとしていただけなのだが、あとからやって来たデュオに「天使が雪を降らせてる」などと茶化されたのだ。

 そのデュオは、今はL2周辺の宇宙そとにいるのだろう。あれから何度となく探してはみたが、ヒイロの腕をもってしても正確な居場所をつかむことはできなかった。組織スイーパーグループに紛れて身を隠しているのかもしれなかった。彼もまたガンダムのパイロットであったからだ。

 公園の向かいの図書館が目に入った。ヒイロはよくそこへ足を運んだものだが、今日も寄ってみようかなどと考えはじめていた。図書館の入り口にある受け付けは、行くといつも無人である。いや、本当は交替で誰かがいるはずだが、ヒイロが人のいないときを狙って入館するからだった。頻繁に出入りする自分の顔を、覚えられても困るからだった。

 まだ午前中の早い時間だったので、図書館はひっそりとしていた。午後ともなれば児童達が遊びに来るのだろうが、彼らは長期の休み中でも朝10時までは家にいなくてはいけないらしく、まだ誰もいない。ヒイロは迷わずに奥へと進んだ。最奥にある端末の並んだ部屋へ入ると、入り口を閉めて鍵ロックをかけた。

 デュオを探すつもりは今日はなかった。どこか別のコロニーへ行こうと、定期シャトルの発着一覧をのぞく。L1コロニーの標準時間で今日、4月5日の午後の便は、ほとんどいっぱいだった。春休みを利用してL1に遊びに来た連中の、帰省ラッシュと重なったらしい。L1には四季があるから、この時期”春”を堪能しに来る者が多いのだ。唯一空席のあったのは、すべて地球行きだった。わざわざ人工の春を見に来る必要もないからだろう。

 とくに何の用もなかったが、ヒイロは地球行きを決めた。適当にデータを改ざんし、特等ファーストクラスの席を予約る。その場でチケットがデータで送られてきたのを自分のFDフロッピーに写した。中央案内センターにでも行けば正式なものを発行してくれるが、宇宙港スペースポートの入り口の機械チェックをごまかすのにはこれで十分である。

 ヒイロの春休みはあと2週間以上あったので、帰りのことは考えずに図書館を出た。サクラの吹雪く公園を抜けて、部屋アパートへと帰る。

 正午を過ぎた頃、たいした荷物も持たずに、ヒイロは宇宙港ポートへ向かった。14時12分発の地球アースシンガポール宇宙港ポート行きの定期シャトルに乗り込み、地球したに着くまで一眠りしようと目をつぶる。警戒だけは怠ることなく、ヒイロは夢の地へ落ちていった。シャトルが飛んだのは、それから2時間後。地球に着くのは現地時刻で6日の明け方の予定だった。




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