湿り気のある風が吹き抜け、戸口に立つ男の髪を揺らした。まだ若いというのに象牙のような濁った白い髪を持つその男は、視界から消えていく人影とは別の人影に気付いて、口を少し開けた。が、そのまま何も言わずに黙り込む。
マイアオ
「何してんのさ、脉燠」
やってきたのは、近くに住んでいる娘だった。年の頃は十八くらい。珍しいオッドアイを持ち、灰にくすんだ茶の髪をしている。
ユエソイ
「いや、何でもないよ、樂雖」
脉燠と呼ばれた男は不自然な抑揚で言った。その口調の不自然さに気付いてか、オッドアイの少女、樂雖は憮然とした表情で脉燠にくってかかった。
「人がせっかく聞いてあげてるんだから、答えなさいよ」
「本当に何でもない」
「じゃあ何故、こんなところに立ってたの」
「…なんでだろうな」
「ほら、誤魔化さないー」
脉燠の、色の抜けた象牙のような色の髪とは対照的な、澄んだ蒼い瞳をくいいるように睨み付けて、樂雖が言う。二人の年齢の差は八、九であったが、樂雖は全くもって物怖じしない性格だった。
「じゃあいいよ。私が言おうと思ってきたことも言わない」
「それはないよ、言いなさい、樂雖」
「何があったのか言う?」
「…君が先だよ」
「交渉成立ね」
背伸びする口調で樂雖が楽し気に告げた。自分の勝ちだとでも誇張するみたいに。
ひとつ深呼吸をして、樂雖は口調だけは重々しく、素早く告げた。
「私、戦へ出るよ」
一瞬、声も出ないふうに戸惑った顔で、脉燠は答えた。何を言っていいのかわからず、口を動かしても声にならない。
「何よ、そんな驚いた顔して。兵役だよ、知ってるでしょ、それに脉燠だってあるでしょうが」
樂雖は、重々しく告げた割には軽い調子で続け、更に脉燠の心を重くしたことなど微塵も気付いていないようだった。ようやく落ち着きを取り戻して、脉燠も深呼吸をひとつ。
「それで、何をしてくるつもりだ?」
「みんなのために、戦うの」
それが何をすることを指すのか、きっと知らないのだろう。さらりと樂雖は言ってのけた、それが大義名分であると知らずに。何をさせられるか知っているから、自分は行きたくないというのに。しかしまた、逃げるのも嫌だからこうして悩んでいるというのに。
そんな脉燠の心の内など、もちろん樂雖にはわからなかった。
「それでね、きっと女の子だと危ないから、男の子の格好で頑張ってくるよ」
むしろ楽しげに樂雖は言う。無知はなんと幸せなことだろう。そしてまた、なんと不幸せなことだろう。何も知らない綺麗なオッドアイは、左右に希望を湛え、輝いて見えた。
「女の声で『俺』って言ったら、敵はびっくりするかもね」
冗談のように笑いながら言う樂雖を、脉燠はもう見ていなかったかもしれない。はるか遠くに砂の地が続くさまが見えた、それは幻であったが、そこに立つ樂雖の、砂埃にまみれた顔さえ見えるようだった。血に汚れた手が、武器を握っている。その血は誰のものか、自分の怪我か、それとも。
先を見つめ放心したように立つ脉燠を不思議そうに見やった後、ふと、気付いたように樂雖は辺りを見回した。
「あれ、ねえ、可愛い妹さん達はどうしたの」
ああ、と脉燠はうめいた。我に返り、ようやく答える糸口を見つけて、静かに脉燠は言った、それがどうにもならない事実だと自分に再認識させるためにも。
「出かけていったよ、兵役の代わりだって」
戸口に佇む脉燠は、たった今、見送りを済ませたところだった。愛すべき妹達を、美しい黒髪を持つ皚踰アイヤオと那皋ナァカオを。
こんなところでまだ悩んでいる自分を置いて旅立った妹達。
無事に戻ってくるといい。
急に黙り込んだ脉燠を気づかうように、樂雖は、そう、とだけ答えた。はしゃいだ自分を少し恥じたりもしたが、それだけだった。脉燠が何を思ってそんなに黙り込むのか、わからなかった。義務を果たしてくるんだから、いいじゃないか。
気を取り直して、それから樂雖は、またね、と続けて、脉燠の返事も待たずにその場を離れた。戦に出る仕度をしなくては。他の人達にも別れの挨拶をしなくては。
皆、離れていく。
左下の欠けた月が明かりを地に落とす。.
揺れる闇の波の谷間を鳥のような白い影が滑っていく。.
シーイェン サンフ
故郷を飛び立ったばかりの 煕 焉 と 喪 赴が乗っている。.
真新しい傷も無い戦闘機が、音も無く月夜を滑っていく。.
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