ツーリン
梓陵は、何を思うでもなく、ふと窓のほうを向いた。あるいは、今考えていることを振り払いたくて首を振っただけなのかもしれない。
空が白く霞んでいた。というよりも、外の大気全てが白く濁っている。
驚いたのは束の間で、すぐにそれが雨粒の成す幻影だと気付く。樹々の前を降り落ちていく、白い線が見える。細かい雨が降り注いでいる。下方に目を遣れば、遠目にも地面は黒ずんで見えた。雨は大分前から降っていたのだろう、見え得る限りの地面はすっかり水浸しになっている。
音に気付かなかったのは、窓の分厚いガラスのせいか、それとも遠くなった自分の耳のせいか。おそらくそのどちらでもないだろうと、音のない雨を見ながら思う。
気分転換にと立ち上がる。急な目眩に首を振って背筋を伸ばす。揺れる意識が元に戻るのを少し待ち、それから窓枠に手をかけた。二重に掛けられた鍵を外し、枠を押す。軋む音が聞こえるのもかまわずに、押す。外側に向かって開かれた左右のガラスには、すでに水滴がいくつもへばりついて流れを作っていた。
開け放たれたとたんに吹き込む風は湿っていて、部屋の中にまで雨を降らせようとしている。
音はなかった。
それとも自分の耳がどうかしてしまったのだろうか。
聞こえないなら聞こえなくてかまわない、と一瞬思った。
その思いを覆すかのように、ずっと先のほうで鳴る汽笛が聞こえた。耳がおかしかったわけではないのだ。三度同じ音が届き、止んだ。今ちょうど、白波を立てて出航するところなのだろう。港の中を、人の作った海と陸をつなぐ安らぎの場所を、静かに水面を滑り出す大型輸送船の姿が見えるような気もした。
雨の冷たさに我に返って窓を閉める。
耳の奥を滑ったのは、ガラスの擦れる嫌な音。
たてがみ
鬣を持つ猫のいびきのような。
客船などという洒落た船に乗るだけの手持ちはなかった。そんなものがあるなら、故郷を離れたりはしなかっただろう。ほとんど装飾のない質素な服に身をつつみ、少しの荷物を抱えて眠る姉妹がある。同じ顔、同じ背丈、同じ年の二人が眠るのは、荷物を運ぶ水上船の底深く。浸水すれば一番に溺れ死ぬような低い位置で、やっと乗せてもらった二人は寝ていた。
寒気がしても、荷物にくるまり二人で寄り添っていれば温かい。人のぬくもりがこれほど大切なものだとは、誰も教えてはくれなかった。たった十六で故郷を離れていく彼女らは、行く先に身寄りもない。
アイヤオ ナァカオ
それは、若き頃の 皚 踰 と 那 皋であった。
まだあどけなさを残す面影は、明らかに子供の顔。異国の言葉は何一つとして知らず、異国の風景など見たこともない彼女らは、徐々に故郷を離れゆく船の中で眠っている。
目覚めたとき、そこに何が待つのか、わからない。想像もできない。
船が出航するときの汽笛の鳴る音にも気付かないほどに、二人は深い眠りの中にいた。
二人がその部屋から出ることは、固く禁じられていた。何故ならそこは、本来なら人が居るべき場所ではなかったから。船がどういう海路をたどって自分達を運んだのか、二人は知る由もない。
船底に窓はない。陽も、月も見えない。明るさも暗さも伝わってこない。朝も昼も夜もない船底で、幾週間過ごしたことだろう。時間感覚さえ怪しくなっていたが、日に三度、船員が運んできてくれる食事の時間を数えて、それを補うことにしていた。
その日は、食事の時間ではない頃に扉が開き、船員が顔を見せた。扉の向こうに眩しい太陽の光が見えた。
「おい、着いたぞ」
荒々しく船員は告げたが、二人はそんなことにかまったりはしなかった。すぐに荷物をまとめ直して立ち上がる。肩で切り揃えられた髪を束ね直して、扉をくぐった。外の光が眩しかった。何週間振りの、陽の光だろう。
出る時に「ありがとう」と船員に言い残す。誰もいない甲板を歩き、乗り組み員用のタラップから地上へ降りる。見上げれば、乗ってきた船の大きさがうかがえた。荷物を運ぶ船が、自分達を運んだのだと思うとなんだかおかしい。
「行こう、那皋」
皚踰が思いを断ち切るように言い、那皋はうなずいた。
港の中を歩いていく。道なんてわからない。ただ、その場所を離れてしまいたかった。
港を抜け、市街地に入る。船の姿が見えなくなるほど離れたとき、遠くで汽笛が聞こえた。同じ音が三度鳴るのが聞こえた。これからどこへ行くというのだろう。船は。私達は。
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