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      湖畔に金牛 



空をかき抱く
地を蹴りあげて舞う砂の中で


 うすぼんやりとした意識の覚醒。
 眠らない脳が見せる夢。            シーイェン
 響き渡ったかん高い叫び声に不意に目を覚まして、煕焉は視界に映る天井を、見てはいなかった。
 見ていたのは夢。
 意識がはっきりしてくるにつれ、天井の決して綺麗とは言い難い色と、ところどころに染み付いた汚れとが見えてきて、夢の記憶は薄れていった。確かに見たはずなのに、覚えていられない。
 それは正夢であったかもしれないのに。
 地を蹴りあげて舞う砂の中で、呆然と立ち尽くしたままの自分がいた。視界は濁っていてよくわからない。立ち尽くした自分は、何を見たのだろう。
 何を感じていたのだろう。
 思い出せない、ほんの数秒前まで頭の中に残っていた目の前の景色と想いとが、わからない。


 少し茶の混ざる金の髪を触る。長く伸びた前髪を後ろにかきやって上身を起こす。寝台の上で起き上がった煕焉が見たのは悪い寝相のまま眠り続ける喪赴サンフと、窓の外で凛々しさを保ち臥して待つ月。
 上部の欠けた月をしばらく見ているうちに、完全に目が覚めてしまっていた。
 悪夢でも見たような胸騒ぎを覚えたことに苛立って立ち上がる。眠り続ける喪赴をそのままに、目を覚まさせたかん高い声の主を知るべく部屋を出た。
 宿の地下には酒場がある。階下では、こんな時間だというのにまだ、騒ぎ声がしている。
 石造りの階段をゆっくりと降りていく。途中ちらりと見えた一階は暗く、誰もいないようだった。
 一段一段確かめながら更に下へ行く。
 歌が聞こえた。
 怒鳴り声やら笑い声やらの喧噪に混ざって、およそ場違いなほどに美しい声が聞こえてきた。煕焉は思わず立ち止まって耳をそばだて、それが幻聴でないことを確かめてしまった。声は本物だった。歌は幻などではなかった。早まる鼓動を抑え、最後の階段を転げるように駆け降りて、酒場の扉の前に立つ。
 扉といっても、単なる仕切りにすぎない板切れがあるだけだ。明るい酒場から洩れた光が、暗い通路にまではみ出してきていて地面が明るく照らされている。その光は煕焉の足をも包み込み、煕焉のかかとの後ろに小さく影を伸ばしている。
 入り口からは中の様子がうかがえた。酔っぱらって顔を真っ赤にした者、意味のわからないことを口走っている者、注文をとる女将の声、ばかでかい笑い声、ガラスのぶつかる音、木製の椅子やテーブルのきしむ音、その中に混ざった美しい歌声。
 誰だろうと首を伸ばす。姿が見えない。
 背伸びすると、座る客達の頭越しに揺れ動く人が見えた。照明の光を反射してか、髪の毛が金色に輝いて見える。
 顔は見えない。
 と、そのとき客の頭が動いて、水が分かれて道を示したみたいにその人までの目線上の道が開かれた。豪奢な金髪を背に波打たせて、強く美しい声で歌う女性の横顔が見えた。歌いながら彼女は微笑みを浮かべている。周囲の喧噪など微塵にも気にしないふうに、歌い続けている。
 彼女が振り向いた。
 何かを秘めたような濃紺の瞳と、煕焉の瞳とが合った。
 彼女の微笑みが自分に向けられたような錯覚を感じて、煕焉はその一瞬の間、呼吸が止まったかと思った。
 びっくりして、すぐに視線を外す。
 再び見遣れば、彼女はもうこちらを見ていなかった。
 自分を覚まさせたかん高い声の主などもうどうでもよくて、煕焉はその場を離れた。鼓動の高鳴りは、まだ止まない。歌声は、続いている。


永遠とも思える闇に光を
果てなき絶望に一条の希望を




 息をひそめて戸を押した。いつになく重く感じられた戸をゆっくりと押す。
 背後に騒ぎ声を聞きながら、豪奢に揺れる金の髪を持つ女性は、そっと外へ出た。風が冷たい。羽織ったコートの襟を重ねて、白い息を吐く。手袋もはめていない両の手にも息を吹き掛けた。
 振り返れば肩ごしに光が見えた。音を立てずに戸を閉めれば、そこに闇が訪れる。暗い。空を見上げても月は見えず、星も見えない。前後左右もおぼつかないほどの暗闇で、そのまましばらく立ち尽くし、ようやく目が慣れてくると視界が晴れてきた。わずかながら道も見える。
 女性は、ゆっくりと歩き出した。何度か石につまずきそうになりながら、慣れない夜道を歩いていく。昼間、見知らぬ男性に声をかけられたことを思い出しながら、指定された場所へ歩いていく。自分が何故その男の言うことを聞こうと思ったのかわからない。変化のない毎日に飽きてきたのかもしれない。男の持つ金の髪に、不思議な安らぎを覚えたのも確かだった。女性のほかに、周囲にそんな髪を持つ者はいなかった。
 闇の空の下で一人待つ。
 昼間は煮えるような暑さだと言うのに、夜のこの寒さは何なのだろう。冬になれば雪さえ降らす夜の空を見上げた。雲が天を覆い星を隠している。空の地図は読めないけれど、その美しさを知っている。だが繰り広げられるはずの神話は、今日は見えない。
 人の気配を感じて振り返る。誰かが歩いてくるのが見えた。
 近くまで来るとその人の顔が見えた。それは昼間の男性だった。
  フォンファ
「… 瘋 崋?」
 男性は確かめるように名を呼んだ。
 瘋崋と呼ばれた女性は、そうよ、と答えた。男の金色の髪が揺れて、その下に透明な瞳をのぞかせた。何色でもない、白くもない、透き通ったガラスのような瞳を見て、瘋崋は思わず息を飲んだ。
「綺麗な目ね。…でも少し怖いわ」
「ああ」
 短く答えたその男の名前を思い出して、女性は名を呼んだ。
 シーイェン
「 煕 焉。何故、わたしをこんな場所に呼んだの」
「どうしてかな。…あまりに綺麗だったから、かな」
 困惑したように煕焉は答えて、急に何かを思い付いたような顔で言った。
「そうだ、僕の船に乗せてあげようと思って」
 君が何も知らなさそうな声で歌ってたから、と煕焉が続ければ、失礼ね、と言葉で言いながらも嬉しそうに瘋崋は答えた。
「それで、どんな船?」
「……いや、それが戦用なんだけど」
 言いにくそうに答えた煕焉を、瘋崋は面白そうに見ていた。それは楽しみだ、とでも言いたげな瞳で。
 煕焉は喪赴の機体と共に隠してあった自機を、すぐ側まで引いてきてあった。二人が座れるようには出来ていないそれに、無理に乗り込む。思ったよりもスペースはあって、どうにかこうにか二人、座ることができた。
 眠っていた戦闘機に魔法をかけるように、起動させていく。緑色のランプが幾つも点灯して、準備良しと告げた。
「飛ぶよ」
 言うが早いか、ふわりとした浮遊感が二人を包む。ほとんど無音のまま宙を滑り出した煕焉機が、星も月もない夜の空へと上昇していく。
 冷たい風が耳を掠め、瘋崋の豊かな金の髪と、煕焉の茶の混じった金の髪とを揺らした。上から見下ろした街は、星をちりばめたような輝きが点々と灯っていた。そんな風景を見たこともなかった瘋崋は、飽きもせずに闇の海をずっと眺めている。自分がどれだけ小さな小魚であったかを、思い知らされたようだった。
 神話は空にだけあるのだと思っていた。地上にもこんな、綺麗な輝きが点々としているだなんて、気付かなかった。離れてみて初めて、それらの価値が見えてくる。華やかな地上の光の地図。
「こういうの、いいわね」
 美しい声を耳もとに聞いて、煕焉はそうだねと答える代わりに首を縦に振った。
 瘋崋の歌う不思議な詩の歌を思い出しながら、煕焉はいつになくゆっくりと飛んでいた。柔らかな羽毛を敷き詰めた上を渡るような感覚で。
 会話がしばらく途切れて、静かな機体の音だけがしていた。その沈黙を破って煕焉は背に向かって声をかけた。
「なあ、歌ってよ何か」
 声を立てずに微笑んだ瘋崋の息遣いが伝わってくる。歌って欲しい曲の出だしを、煕焉は口笛でひゅうと吹いた。
「了解よ」
 瘋崋は答えて、のどに手をあてた。夜風を吸い込んだのどが、いつもより乾燥してしまって少し痛い。でもまだ大丈夫、と自分に言い聞かせ、大きく息を吸った。
 そのときふと聞こえてきたのは、耳障りなエンジンの音。
 二人同時にそちらを見遣れば、煕焉機の三倍は裕にありそうな機影が見えた。
「あれは…ッ」
 瘋崋がびくりと震える仕種が伝わってきて、煕焉は顔を険しくした。似合わない不機嫌そうな顔で、機影を見遣る。
「追ってきたな」
 瘋崋は知らなくても、煕焉はこの美しい歌姫をさらったつもりでいた。返すつもりなど無論ない。
 追ってきたのなら、逃げるまで。
「ちょっと、飛ばす」
 抑揚のない声で短く告げて、驚いたふうの瘋崋の表情を盗み見た後、前方を見据える。雲は晴れない。月は見えない、闇。
 視界を狭くするほどに迫ってくる暗闇は、しかし決して近くまで来ることはない。眼前を先行する漆黒の空を抜かんと、スピードをあげていく。いつにない速力を自機に出させて、煕焉は飛んだ。
 瘋崋の豊かな髪が風に煽られて舞い上がる。金色の輝きは綺麗だったが、前だけを睨み付けている煕焉には見えない。瘋崋は振り落とされそうになる自分の体を、ぴたりと船体に固定させて、握れそうなでっぱりをしっかりと掴んで離さなかった。気をとられそうになる、耳もとで揺れる豊かな髪を、今ほど恨めしく思ったことがないほどに。
 風が、意地悪い風がほおを掠めていく。冷たく乾燥した大気の河を逆流するみたいに飛んでいく。
 いくら飛んでも、暗い空の色は変わらない。眼下の明かりはすぐに後ろになっていくが、このスピードでは見ている余裕もない。どこまで行くのだろう、と瘋崋は不安を込めて思った。煕焉はどこまでも逃げていくつもりだった。
 旧式とはいえ現役の戦闘機に、体ばかりでかい輸送機が追いつけるはずがない。
 だがそう思ったのも束の間、それほど高性能には見えない相手を引き離すことさえ出来ず、煕焉機は足りなくなった燃料の補給を訴えて出力を落とした。計器が残り数分も飛べないことを示している。
「ばかー」
 自機の操縦桿にもたれて、煕焉は呻いた。
 速度を落としていく船体の中でくすり、と笑った後ろに座る美女は、何を思ったのだろう。
 わずかにでも遠くへと、小さな抵抗を見せつつも煕焉が自機を着陸させると、少しの間をおいて小型の輸送船も着陸した。瘋崋を戦闘機から下しながら、すまなさそうに煕焉は言った。
「ごめん、瘋崋」
「いいえ、楽しかったわ」
 煕焉が自らをつれて逃げようとしたなどと微塵にも知らない美女はそう答えた。単なる追いかけっこくらいにしか感じていないのだろう。闇においても輝きを失わない豪奢な金髪を揺らして、歌姫は輸送船のほうへと歩いていった。船へのタラップを登りながら、彼女は優雅な仕種で煕焉に礼をした。
「ああ」
 と、短く煕焉は答えた。歌姫にその声は届かない。
 逃げた小鳥を再び鳥かごに押し込めて輸送船が飛び立つ。
 自分は何色の翼を持っているのだろうと、歌の詩を思い出しながら思った。でもきっと自分では色なんかわからない。




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