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      向合う双魚 



 揺れる波の谷間を白い影が滑っていく。



 たとえ真昼でもろくに陽射しの差し込まないだろう小さな窓の側に一人、男が立っている。薄暗い部屋の中で、そこだけがうっすらと明るい。窓の外の月明かりが、望月まであと数日の月の光が、窓ガラスを通してそこだけを照らしている。
 窓ガラスには、立っている男の顔が映った。
 浮き上がるように白く反射する自分の顔を、その男は飽きるでもなく眺めていた、あるいはその先に何かを見ていた。
「誰が」
 ふと、つぶやきが零れて床を這う。
「誰が行くと言った」
 声はそのまま流れていって、部屋の端に到達する。しかし聞かせるべき相手には届かない。壁を隔てて向こう側にいるはずだった相手には、こちら側の声が届くことはない。
 消えた声を惜しむでもなく、男は窓ガラスを見つめた。窓は鏡のようにも思えたが、映し出されるのは肌の部分だけで、あとは外の闇と同化してしまっている。
 男が、何かに気付いたみたいに首を後ろに振った。光もはね返さない真っ黒な髪が、振り向きざま少し頬にかかる。見えたのは、ただの薄暗いがらんとした部屋。そこに誰がいるでもなく。
 手を伸ばせば傍らには銃器。触れるとそれは氷のような冷たさで応え、反射的に手を引っ込めてしまいそうになる。引っ込めようとした己の手を寸でのところで留めてそれを掴み、しかと握りしめた動作は、何を意味するのか。
 黒髪の男が弾の込められていない銃を片手だけで背に担ぎ上げたとき、窓の向こうを何かが飛んでいくのが見えた。
「…鳥?」
 否、いくら明るい夜とはいえ鳥の目が闇に効くはずがない。瞬間沸いたイメージを振払い、目を凝らす。
 それは、はるか遠くを音もなく飛ぶ、不思議な鳥だった。距離の感覚は正確には掴めなかったが、動きののろさから遠くだと踏む。とすると、その大きさは決して小さくはない。狭い部屋なら、その飛行体を納めることはできないだろう。
「何だ?」
 闇に紛れて飛ぶ姿を、目を細めて凝視する。しかしよくは見えなかった。やがて視界から消えた鳥を、男は深く記憶に刻んだ。そのとき第六感が鳴らしたのは、不安への警鐘。
 担ぎ上げた銃を背から下ろして壁に立て掛け、その銃身を見下ろした。四六時中これを担いでいなければならないときが、くるかもしれない。誰もそれから逃れることはできない。




 青白い月が砂埃の中に浮かび上がる。
 怪しい光を放つ白い円盤が、くっきりと存在を示す。眩しさを忘れて見とれてしまう。
 急に腕を引かれて後ろに倒れ込む。灰を被ったような色の髪を持つ女性は、そこに険しい表情で前方を睨む、サファイヤのような瞳を持つ青年を見た。横から見ても表情は硬く思えたが、幼さを残す面影だけを見るなら、まだ若い。
「誰?」
 反射的に問えば、答えは返ってこない。
 青年の見つめる先を女性が同じく見遣れば、砂埃の中に幾つかの黒い影がうかがえた。動いている。人がいる。
「あの人達は…」
「敵か、味方か、わからない。前者の可能性のほうが高い」
 視線をずらすこともなく答えて、青年はそのまま黙り込んだ。短い緊張が走った後、次第に影は消えていった。
 完全に影が消え、安堵のため息を青年が吐いたとき、風が吹いた。突風が地上を一撫ですると、嘘みたいに砂埃が退いて太陽が力を取り戻す。影が足下に現れた。空の光の固まりが月のように見えたのは、太陽の光が弱まっていたからだろう。
 自分の影を見下ろしながら、肩にこもった力を抜くように、深く息を吐く。それから青年は、女性のほうを向いた。珍しいオッドアイの瞳が怪訝そうに青年を見ている。青年も同じように、いぶかしげな視線を投げた。
「…お前、誰? その格好、民間人じゃないよな」
    ユエソイ
「俺は樂雖。今は、兵役四年目」
 青年は一瞬、戸惑ったような素振りを見せてから、そうか、と、うなずいた。
「なんだ、一緒だ。僕も兵役で来た」
 それから、小さな声で、続けた。
「女の子が『俺』って言っちゃだめだよ」
「もう子供じゃない、それに貴方よりは長く生きてる」
                サンフ
「ああ、ごめん。…僕は、喪赴」
 太陽よりも強烈な光を持つ金色の右目と、薄いくすんだような空色の左目とを覗き込んで、喪赴はそこに希望と絶望とを見たような気がした。相反するはずの異なる意思を。
 喪赴が何か言うよりも早く、顔中に埃をつけたままの樂雖はそっぽを向いて言った。
「人が死ぬのをいっぱい見たよ」
 目に溜まることのない雫のかわりに、砂埃が再び視界を遮った。いっそ何も見えなければよかった。




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