壱 涙湛う宝瓶
手を伸ばせば届きそうな、しかし決して掴むことのできない空が広がる。果てしなく続く底なしの青を湛えた天空を、二つの機影が滑っていく。目を凝らせば見えるくらいの高度に、それは在った。
旧式の戦闘機が二つ、緩い編成を組んだまま空の高いところを飛んでいる。
それは地上から見る者に、翼を広げた鳥のような印象を与えた。
戦闘機を駆るのは、まだ若い青年達。一人は短く切り揃えられた金色の髪を風になびかせ、また一人は目の覚めるような青い髪をはためかせている。
「まだか?」
「まだだ」 シーイェン
金髪の男、名を煕焉と言う。彼が備え付けの無線機に怒鳴れば、もう一人の男が不機嫌に応える声が返ってきた。答えに満足はしなかったが、すぐに音量を下げる。どうせそれ以上ましな答えは返ってこないし、そうなると雑音がうるさいだけだ。
返答に込められたほどには毒気はなかったが、もう一方の青髪の男は自機の中で毒づいていた。
「ったく煕焉は。機嫌が悪いとすぐああだもんな」
独り言にしてははっきりとした発音で、愚痴を漏らす。
「何も、怒鳴らなくても聞こえるのに」
幸い、無線機は勝手には音を伝えたりしないから、そのくらいでちょうどいい。相手には聞こえない。自分の声が自分に聞こえて、その事実を外側から認識して、消えていく声に怒りを上乗せできれば、それでいい。
多少の不機嫌さもすぐになくなる。焦げた大地が仰向けに寝そべっていた。
後世の詩人は、そんな洒落たことを言うのかもしれない。
下を。ぐっと下に広がる大地が見える。見渡す限りの荒野にぽつりぽつりと生えているのは背の低い植物だけで、立ち木もなければ花もなかった。荒れた地の果てには石ころとて残らないだろうとさえ思わせる、まこと酷い有り様だった。
「まるで砂漠だ。…誰がこんなふうにしたんだろうな」 サンフ
答えを期待せずに、無線機に向かって青髪の男が言う。彼の名は喪赴と言った。
ややもすると、ひとりだけで飛んでいるような感覚に捕われる。操縦席にぼんやり座っていると、脇を飛んでいく仲間の機体の存在までも忘れてしまいそうになる。振り切るように、そうやってときどき声を出す。答えは返ってこなくてもいい。周りに誰かがいることを、自分が思い出せさえすれば。
雑音の合間に声が聞こえて、煕焉は無線機の音量をあげた。それが大した情報も帯びない言葉だとわかって、握った操縦桿の上で指を二、三度踊らせる。音もなく、リズムだけが脳裏にこだまする。
「さぁな」
煕焉は面白くもなさそうに答え、ついでのように「まだか」と続けた。当然返ってきたのは、半分予想もついていた、先程と変わらぬ喪赴の不機嫌な声だった。
「まだだ、って言ってるじゃないか」
言いながら、彼は翼の傾きをやや変えて、煕焉機の側に寄った。無線機のヘッドセットを手で追いやって、「おーい」と叫ぶ。声は素晴らしい速さで機体と機体の間を抜けていく風に掻き消され、すぐ側を飛ぶ煕焉にさえ届かない。
煕焉はそのまま「ばかやろう」と口だけ動かした。目で口を読んだらしい喪赴の顔が真っ赤になるのが、可笑しかった。怒るくらいなら最初からばかなことなどしなければいいのに、とは思うものの、責められない自分がいることもまた然り。通り過ぎていく、その大地の上を。近付いたと思えば、見る見るうちに後ろになっていく、地上のさまざまな自然物がある。人の握り拳ほどもあるような大きな石が地面に無数に転がっている様子を、二人は暇そうに眺めていた。眺めていられるくらいの余裕はあった、なにせ旧式の戦闘機はスピードが出なかったから。もしももっと良い機体に乗っていたなら、こうして風を受けながら飛ぶことなど出来なかっただろう。
それはそれでつまらない、と二人とも思っている。最新のものなど要らない。不便ではない程度に使えればいい。それでいざ捨てるときに捨てやすいものならなお良い。長い人生のほんの少しを共にするだけの機械に、二人は何の愛着も沸かなければ、その重要さを感じたこともなかった。
所詮それは機械。モノはモノ。命より大事なものなどありはしないと、いざとなったら武器さえ捨てる勇気を持てと、誰だったか覚えていないが、偉い爺さんがよく言っていたものだ。
「命より大事なものない、だなんて、よく言ったもんだ」
喪赴が思い出したように付け加え、煕焉はそれに無言で答えた。
飛び立って間もない頃、眼下に戦の続く様子が伺えた。顔までは判別できなかったが、人間の形をした生き物が大勢うごめいている様は、上からならよく見えた。
よく見ておけと言われたから見た。行為の果てに血潮が飛ぶくらいならまだましだと言われたそれが、本物の戦場と言うやつだろう。声も、悲鳴も怒号も聞こえやしない。そんなことで何がわかる?
遠くてよくわからない、と二人とも思った。しかし低空を飛ぶような度胸はなかった。それはあまりにも危険過ぎたし、惨劇を目の当たりにすることもないと思った、悲劇をこの眼で見ておく、などという偽善じみたことは。
ひどいな、とつぶやくこともしなかった。それは言ってはいけない台詞のように思われた。そんな、第三者的な発言は。
そうしてしばらく飛んで、見渡す限りだった荒野が途切れるところまで飛ぶと、二人はそれぞれの機を着陸させた。盗まれることを考慮して人目のつかない場所に動かし、ぼろ布のようなカバーをかけてカモフラージュする。
街は、すぐ目の前にあった。日射し避けなのだろう、長いひさしを持つ家が多い。その影に守られて遊ぶ子供達がいる。足下には、やはり石が転がっている。先程と変わらない握り拳大の石。街のほうから吹く風は、思ったほどに乾いていなかった。少しばかりの湿気を含んで、ほおをなでる風が気持ちいい。街は、砂漠の中のかろうじて水のあるところを開拓したような、そんな印象を受けた。
煕焉はポケットに手をいれ、所持金を取り出した。わずかな紙幣と少しの硬貨が、手のひらで揺れる。のぞきこんだ喪赴が諦めたように肩をすくめた。
「これじゃ探すの大変だな」
「これの半分で、二人一晩の宿だからな」
「あるのかな」
サンフ シーイェン
喪赴の言葉には答えず、煕焉はさっさと歩き出す。たったそれだけの支払いで泊めてくれる宿は、そう簡単には見つからなかった。宿自体が少ないというのに街中を探して、石だらけの地面しかない道を歩き回り、やっと見つけた一軒をよく確かめもせずに、二人はそこに決めた。賑やかそうなそうな声がしていた。どうせ休むなら、静かなところのほうがよかったのかもしれないけれど。でも人がいることを自分達が安心して受け入れられる場所なら、騒がしくてもそのほうがいい。
すでに陽が沈みかけていて、あたりには黄昏れの空が広がりつつあった。空の東の端には早くも闇が佇んでいる。
「もう、どこでもいいよ、寝られさえするなら」
眠そうな声で喪赴は言い、あてられた部屋に入るなり荷も解かずに寝台に寝そべった。大の字になって、そのまま目を閉じる。すぐにも睡魔が押し寄せ、喪赴は何の抵抗もせずに意識を手放した。わずかな不安さえも抱かずに眠れることを感謝しながら。
自分の荷を解き終わった煕焉が見たのは、すでに寝息を立てはじめた喪赴の姿だった。危険のないことを本能的に察知してか、ほとんど無防備な格好で眠っている。その格好に呆れながらも、安堵を覚える自分がいた。周囲を常に警戒せずに済むというゆとりが、有り難かった。緊張感の無い自分を隠すかのように、声を出した。
「子供は寝て育つ、と言うしな」
最近やっと二十歳を過ぎたばかりの喪赴にそうぼやくと、煕焉は何か腹ごしらえをしようと考えて部屋を出た。
宿の地下にある酒場のほうから、陽気な男達の騒ぎ声が聞こえた。
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