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 竜潜     梓もてたつ陵 
 竜潜      ゆみもてたつはか 



 樹々が葉を緑に染める季節、蝶が舞い鳥の歌う場所から離れた荒野とも思える地に、母子がいた。
 不毛の地に建てられた小屋の中で、緑がかった黒い瞳を持つ女性が、小さな子供に話し掛けている。少年は母親を見上げ、不思議そうに話を聞いている。

 夢を見ているようだった。
 感覚はないのに色鮮やかな視界の中で、寂し気な男性がいつもこちらを覗いている不安。
 あるとき優し気に男性は目を細めた。
 その仕種をどこかで見たことがあると思いながらも、記憶を辿ることはできなかった。変わりに微笑み返せば、男性は喜んだ表情を見せた。
 愛されているのだと、これ以上の幸せはないと、そのときは感じた。全てだった、その人が。
 その人さえ居れば他に何もいらないとさえ思えた。
 記憶はどこかへ消えてしまっていたし、考えるような器用なことは、動かない思考回路ができるはずもなかった。
 花の香りは気持ちよかったし、まどろむ喜びも覚えた。
 それが夢だと知ったのは、幸せから解放された後。

「あの人は、自分勝手だったわ」
 空中に浮いていた古えから続く城を自分の意志一つで地上へ落としたし。
「私は、ああいう独りよがりな人、嫌いだわ」
 それでも完全には非難する口調になりきれないのは、幻だったとはいえ、一時でもあの人を愛した自分の弱味だろうか。
 子供の頭を撫で、ナコウはその額に軽く口付けをした。かつて愛した恋人の話を、静かにしだす。そうでもしていないと、泣いてしまいそうだった。
「兄様は、親友と私の仇をとってくださるそうよ」
 この世界の何処かにいる兄とその息子と、兄の二人の孫のことを教えもした。
「残り少ない、あなたの親族よ」
 何かあったら頼るといいわ、と言おうとして、やめた。
「もちろん貴方の意志を優先していいけれど…」
 少し、ためらい、ナコウは続けた。
「もしもその気があったなら、我々一族が残してきたあの城を封印して欲しいの、二度と」
 もう二度と聞きたくないと思った。
 壊れゆく崩落の音など。
「…二度と、こんなこと起きてほしくないから」
 悲しみに包まれた自らの若き頃を思い返す。
「城を封印できるのは、言葉に力を宿すことができるのは、兄の息子と二人の孫と、あなただけなのよ――シリョウ」
 偉大なる魔法使い、空中に浮かんだ城を落とした城主の名を持つ息子が、うん、と無邪気にうなずいた。



 偉大なる魔法使いが最後に施した魔法は、確かに強大なものだった。全ては眠りにつき、城も召し使いも本人さえも、長い眠りについたのだ。すなわち、死んだ。
 シリョウの魔法は途中で失敗し、完成することはなかった。
 その混乱に乗じて眠りから目覚めたナコウは、ここにこうして生き恥をさらしている。いっそ共に死ねたらどんなに良かったことか。そうすれば、何もかも忘れて幸せな夢を見たまま楽に死ねたのに、とさえ思う。
 死ななかった自分の運のなさを呪ったりはしなかった。そんな愚かで馬鹿らしいことは、しようとも思わなかった。生きている。ならば残された自分にできることは何?
 切り立った崖の上から見下ろせば、遥か下に海が見えた。生まれて初めて見た海は、思ったよりも激しく波打ち、今にも崖を崩してしまいそうな気がした。
 崩壊直後の城跡で、気丈にもナコウはシリョウの変わり果てた姿を眺めていた。やがてふっきれたようにその場を離れようとして、立ち止まる。シリョウのもとに駆け寄って、その側にひざまずく。泣くでもなくなじるでもなく、ナコウがつぶやいたのは少しの謝罪。
「ごめんなさい、これ、もらうわ」
 シリョウの髪の毛を数本抜き取り、片手に握りしめる。
 魔法をもってして、ナコウはその毛から子供を一人創った。禁じられていた魔法ではあったが、今はそんなことにかまっている余裕などなかった。シリョウの記憶と力とを受け継ぐ子供が、間もなくして生まれる。同じ名を与えれば、記憶と力とが蘇り、城主シリョウと変わらぬ姿にさえ育つだろう。
 ナコウは、髪の毛を握りしめたまま海に面した切り岸の上に立っていた。昇ろうとする陽を眺めていた。潮風が髪を揺らせた。美しい金髪が絡み合って宙を舞う。
「…あなたは、ばかね」
 安らかな微笑みを浮かべて死んだシリョウの顔を思い出して言う。足下にある瓦礫がまるで墓標のように思えた。
「私もばかだけれど」
 手の中のものをもう一度握りしめた。自分はこれから、何をするつもりなのだろう、と自嘲気味に自問した。
 否、これは必ずやり遂げなくてはいけない。
 奥深いところに潜む己の復讐心を知りながら、もう一度「ばかね」とつぶやいた。
「でも私は逃げない」
 それはかつて、ただ一人本当に愛した恋人に誓った言葉。




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