⇒目次に戻る



 神去     瘋おしいほどの崋 
 神去      くるおしいほどのはな 



 誘うように、長く長く影が伸びている。傾いた、地平線すれすれの太陽を背に二人の男が歩いていく。地に降りてもう十年以上経つというのに、その光景には慣れないものがある。天高き地にいたとき、陽が遠く遠く海の底へ沈みゆくのがもっと遅い時間だったことを、体の中に組み込まれた心の時計が知っている。足下をずっと潜っていっていつの間にか消えていったものだ。こんな時間に、しかも目線と同じ位置ではっきりと陽が消えてしまうのを見るのは、いつまでたっても慣れることはできない。
 先頭をいく一人が手にしたカンテラには、まだ火は点されていない。二人は驚異の城と呼ばれる朽ちた城を、見て回っているところだった。外壁がすでに草色一色に染まっているのはわかっていた、彼らが見ているのは外壁を覆うそれらの蔓や茎が、岩の割れ目の中にまでも手を伸ばし、亀裂を深めていないかということだった。
 先頭をいくほうが、カンテラを掲げてみせる。亀裂をのぞきこんでいたほうが、仕種に気付いて背を見やった。
 ちょうど、陽が沈みゆくところだった。
 思わず見守ってしまう。ゆったりと、しかし確実に陽は地の果てへと沈み込み、すぐに姿を消した。空はまだ赤紫色だったが、それも徐々に濃い紫、そして黒へと変わっていく。足下にあった影が弱まっていき、見えなくなった。
「気高き炎の精霊よ」
 かたん、と蓋をあけ、決められた言葉を唱えると、風が手許をなで、熱を帯び、カンテラの中へと滑り込んだ大気に明かりが灯った。
「帰ろう」
 カンテラを掲げて、先頭に立つものが言えば、もう片方がうなずいた。歩き出そうと一歩、踏み出して、音がしたのに気付いて二人は同時に頭上に目をやった。
「危ないっ!」
 落ちてきたのは、ぼろぼろになった羊皮紙のような、剥がれた外壁。泥と枯葉がこびりついている。
「長くは持たんな」
「そうだな」
 それが誰のせいだとか、二人は思っても口には出さなかった。傾いた塔が倒れて地に埋もれても、かまわないのだろう。その塔が例えば価値を無くしたのなら。何もしないことが城主の方針ならは、従者たる者どこまでもついていかねばならない。



 回廊を、城主シリョウが歩いていく。窓からもれる明かりはなく、シリョウの足下は暗がりの中にある。その床には色のない大理石が、単調な模様に敷き詰められている。以前は鏡のように磨かれ抜いてあった床も、埃が積もって久しい。舞い上がる程にはシリョウは足早ではなかったが、今日に限ってはさらにゆっくりとした足取りで歩いていた。
 最近特に思うように身が動かないことを、この魔法使いは感じていた。一歩一歩気を配るように、しっかりと地を踏み付けて。そうして静かに静かに歩いていたはずなのに、大理石の継ぎ目などあって無きがごときこの回廊で、シリョウは何かにつまずいてバランスを崩した。床にひざをつく。手をつけて上半身を支え、転がるのだけは避けた。
 手のひらに埃が付いたことにも気付かず、シリョウはその姿勢のまま、ああ、とうめいた。
 もしも自分がこのまま動けなくなったら。
 自らの考えのすえに行き着いたのは恐怖。シリョウは目を伏せて身震いした。もしも自分が死んでしまったら、あの女性を見守る者がいなくなる。それはそのまま、女性の死を意味した。
「何とかしなくては」
 その晩、シリョウは城中をひっくり返して、古い文献を幾つも漁った。もう何度も読んで読み慣れているはずの書にも全て目を通した。本棚に並んでいた書物が床に積み上げられていく。夜が更けるにも気付かないようで、文字と記号とを目で追い掛け続けた。
 そうして見つけたのは、強力な魔法。全てを眠りにつかせる言葉。それがどれほどの威力を発揮するのか、どのくらい維持できるのか、そんな記述は一つも見当たらなかった。歴代の城主の中に、それを試した者がいないせいだろう、と思った。
 それでも、良かったのだ、シリョウには。
 彼女ととずっと一緒にいられるのであれば。

 言葉が紡がれていく。
 場違いな花の香りがした。
 彼女の優しそうな瞳が閉じられ口元は微笑みを浮かべた。
 意識を統一しようとしても、上手くいかない。
 それでもシリョウは口を動かし続けた。
 唱える本人すらも知り得ぬ、それは滅びの言葉。


 草木が伸びる つるが伸びる
 天を目指して一様に昇っていく
 それは魂の浄化にも似た
 清らかで神聖で 触れてはいけない神の奇跡


 感情を取り戻したシリョウが見たのは、安らかに眠る女性の顔と、泣き顔のまま笑った母親の面影だった。
 さようなら、
 誰につぶやいたのか、わからなかった。
 無性に悲しかった。
 涙が溢れてきた。
 それは、嵐の晩に流すべきものであったと今気付いた。
 さようなら、
 昔の私、泣けない私、
 さようなら、母上、さようなら…我が初めて愛するものよ


 ――我が姿に影おちるその瞬間に。
   我が身そして我が愛するものよ、永遠に眠れ



 涙に視界を覆われ何も見えなくなる闇は静かだと思った




      >>> next page