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 雁来     脉りつづく燠かみ 
 雁来     ねむりつづくあたたかみ 



 地上に落ちた城を、蒼天城と呼ぶ者はいなくなった。
 変わりに呼ばれるようになったのは、畏怖と不安から名付けられた名前。
 何が起きても不思議は無いと、――驚異の城、と。
 誰も訪れなくなって久しいその城へと、足を踏み入れる女性がいる。黒いヴェールの下には、絡まることを知らない美しい金髪が波打っており、長い悲しみを秘めた海の底のような深い紺の瞳があった。ナコウだった。
 シリョウの住まう屋敷へと、疲れた顔ひとつせずにナコウは歩いていく。背筋をのばし、気品ある足取りで中へ。
 …シリョウ。
 名を呼ぶ。敬称などつけない。そんな愚かなことはしない。

 声が聞こえたような気がして、シリョウは顔をあげた。
 私を呼ぶのは――――――誰だ? 

 城の奥から顔を出した城主、シリョウの前へと進み出る。
「初めまして」
「…貴女は、どなたですか」
 抑揚のない声で、シリョウは不思議そうに訊いた。
「先代の従弟の娘にございます」
 ナコウは意味のない名など名乗るつもりはなかった。だが、名を問う言葉などシリョウは発さず、変わりに唱えられたのは眠りをもたらす魔法の言葉。
 意識が抜けていくのではない。
 感覚が消えていく。
 四肢が自分のものではないような気がして、ぼんやりと相手を見つめた。灰色ずんだ瞳は、酷く物悲し気に見えた。その奥に眠る深い緑の色が、綺麗だと思えた。相手の戸惑いが、身近に感じられた。



 机上に振り下ろされた拳の持ち主の顔は怒りに震えていた。愛おしい妹に対する父のやり方に、ラジョウは許しがたい憤りを感じていた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
 何度も何度も、机を殴りつけた。両腕が疲れても、怒りはおさまらない。込み上げてくる熱い感情。悔しさと口惜しさと、やるせなさ。何故守ってやれなかったんだろうと、自分をなじる。親友を殺され妹を奪われ、自分は何故こんなところでのうのうと生きている?
 …奪い返してやる。
 父が何を手に入れようとしていたのか、ようやく気付いた自分を愚かだと思った。父が欲しかったのは、従兄、先代の城主が持っていた莫大な知識と財宝であったのだ。手に入れられることができるならば、彼は何をも惜しまないつもりだったのだ、最初から。たとえそれが、唯一育て上げた美しい娘であってさえも。
「…奪い返してやる」
 妹のためにも、無惨にも殺された親友のためにも。
「俺が、必ず」
 たとえそれが子の代、孫の代になろうとも。必ず復讐してやると、普段祈ったこともない神に誓った。



 偉大な力に守られていたはずの城が朽ちていく。
 城主たる魔法使いが毎日のように覗き込む巨大な水晶の中には、美しい髪を持つ女性が、紺色の瞳と微笑みを湛えて眠っている。シリョウと対面したとたん眠らされてしまったナコウの幸せそうな姿がそこにあった。
 夢を見るような錯覚の中で、自分とも相手ともつかぬ意識の中で、ナコウは花の香に包まれて眠っていた。瞳は閉じられていたはずだった。けれど何もかも見えていたし、感じられていた。覗き込むシリョウと目が合うことも少なからず。その度にナコウは微笑みを返した、誰のものともわからぬ顔の頬を緩ませて。
 何よりシリョウは、全てを投げ出してナコウを愛した。城のことも召し使いのことも忘れ、ただ眠り続く一人の女性だけに愛を注いだ、自分では気付かなくても。
 感情を忘れたはずのシリョウに変化が訪れたように、城にも変化が訪れていた。偉大な力に守られていたはずの城が、加護を失って朽ちていく。その様を見た召し使い達は目を瞑るしかなかった。




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