文披 樂うと雖も
文披 ねがうといえども
まだ雪解けも始まらない春の風が城の周りの草木を揺らしている。気温は低く、植物の芽生えもまだ始まっていない。
城主が変わって二十年余り、空中に浮いた城が地に降りて十回めの春を迎えた。
先代の城主の妻、シリョウの母親たる女性のもとに一通の文が届けられたのは、そんな頃だった。質の良い香りをただよわせたその羊皮紙に書かれていたのは、シリョウの未来について綴られた言葉。
そろそろ嫁をもらってもいい時期ではないか、と。
嫁候補として自らの娘の名を書いた差出人の名前は、先代の城主の従弟たるザゲツだった。
ため息を漏らし、母親は羊皮紙を包んだ。そんなことは本人達が決めるものだと思った。自分がそうやって嫁いできたことを忘れてはいない。できれば息子にも、息子を気に入った娘と結ばれて欲しい。
しかし母親は知っていた、息子が感情を知らぬ子供だと。だから筆を手にした。賛成する旨を伝えるための返事を、文に綴るために。
黒い輝きを煌めかせながら、豪奢な金髪を揺らしてナコウが歩いていく。隣にはすでに恋人のような存在となったガイユ。
突然に城が落下を始めたとき、二人は別々の場所にいた。ナコウは兄や両親とともに食事をとっていたし、ガイユは一人で自分の屋敷の外を歩いていた。突然始まった落下には最初気付くことはできず、すべてが終わってから気付いた。空中に浮かぶ城はもう無いのだと、地上が目線と同じ位置にまで来たのだと。
足取りもかろやかに、一繋がりの服の裾を踊らせてナコウが歩いていく。黒っぽい金色の髪が、白を貴重とした服の上で波のように揺らいでいる。
「どうしてこう、独りよがりばっかりなのかしら」
「それは俺のこと?」
「違うわ、今の城主のことよ」
生きているうちにずっと高い空を見られるようになったのは嬉しかったけれど、とだけ付け加えて、いたずらな瞳でナコウは笑った。
「どうして譲られた財産を大切にしないの、どうして勝手にいじくり回すの」
「それは、…きっとどうしていいかわからなかったんだ」
「あれ程の知識を持つ者が?」
「知識の問題じゃないよ」
ガイユはナコウを抱き締めた。感情の問題さ、と心で続けて少し安心した。自分には感情があって良かった、と。
「少し、船に乗らない?」
「船?」
「水を走るものじゃないけど。この前、親父が見つけてきたんだ、空を飛ぶ船。まだ開発中だって」
「それは素敵ね。どこにあるの」
答えをあげずに、ガイユはナコウの手をひいた。初めて夜の街を二人で歩いたときみたいに、幸せに。
脆く崩れやすい幸せに、逃げられないよう縄をかけて。
淡く消えていきそうな幸せに、鉄の鎖を絡ませて。がしゃん、と音がした。
ガラスが割れるより、もっと鈍い音だった。
そんな音は初めてきいた。
もう二度と聞きたくないと思った。
壊れゆく崩落の音など。父親に呼び出され、娘は首をかしげながら父の自室へ向かった。部屋には、両親が待っていた。
初めに父が、続いて母が、同じことをくり返した。頼み込むように、強いるように、有無を言わさぬ口調で。
「…嘘」
それしか言えなかった。ナコウは両手で口を抑え、泣き出しそうな声を押さえてもう一度ゆっくりと、言われたことをかみしめた。
「いま、なんていったの」
彼等は言う、偉大なる魔法使いに嫁げと。二十も年の離れた城主シリョウのもとへ嫁に行けと。
「どうしてそんな事が言えるの。嫌よ、断ってよ」
「私が、先方にお伺いしたのだよ、ナコウ」
「そんな勝手、親でも許されると思って?」
「娘は親の言うことを聞くものよ、ナコウ」
両親の決意が固く揺るぎないものであることを、思い知らさられざるを得なかった。涙を堪えて、ナコウは言った。
「お願い、少しだけ時間が欲しいの」
母親がうなずくのが見えた。父親は黙ったままだ。
ナコウは、声を抑えて部屋を出た。目に涙が溢れた。
何故こんなにも辛いのだろう止め止めもなく溢れ出る涙を服の袖で拭った。その足で、城のような規模の家を出た。
自然と、走り出していた。裾が絡まりそうになりながら、足をとられそうになりながら泣きながら走った。
誰か助けて。
誰か助けて。
助けて、誰か。助けて、……ガイユ。
思わず心の中に湧いた言葉に自分でも驚きながらも、多分頼れるのは彼だけだと感じた。走って、ガイユの家を目指す。見知らぬ道を走っていく。地図だけで知っているガイユの家へと向かう。近くまできたとき、何故自分はここにいるのだろうと自問して、少しためらった。
ガイユの屋敷を下から見上げる。
と、不意に背を押す者があった。振り向くよりも早くそれはナコウを背から抱き締めて、
「どうした?」
と優しく問う。声でガイユだと察した。
「助けて、ガイユ。結婚しろって言われたの。あの城主とよ。耐えられないわ。助けて欲しいの、どうしたらいい?」
突然のことに戸惑いを見せたあとすぐ、ガイユはいつものように頼もしい笑みを浮かべてきっぱりと言い切った。
「俺が逃がしてやる」
案内されたのは、ガイユの屋敷の倉庫だった。以前にも乗ったことのある、空を飛ぶ船を、ガイユは引っぱり出してきた。座席を軽く拭いたあと、ナコウを座らせて彼は言った。
「馬よりこれのほうが速いだろう。幸い、今はどこへでも行ける。地の果てまでも、逃げられるぜ」
「偉大なる魔法使い様のおかげだわ」
落ち着きを取り戻したナコウが、少しばかりの嫌味を込めて皮肉っぽく応えた。
ガイユは操縦桿を握った。行くよ、準備はいい? と声をかけてすぐ、答えを待たずにシステムを立ち上げる。起動していく不思議な機械音を耳が捕らえて、ガイユは両手に握る操縦桿を動かした。
ゆったりと宙に船が浮かぶ。やわらかな浮遊感を覚えて、ナコウがくすぐったがった。ガイユの手の動きに合わせて船は方向を変え、まるで水面を渡るみたいに宙を滑り出す。
すぐに速度は勢いを増し、むき出しの座席では頬にあたる冷たい風が辛くなった。顔を抑えたナコウを鏡越しに見て、ガイユは船の屋根を閉じる操作をした。透き通ったガラスが閉じられていって、二人だけの空間をつくり出す。白い息が漏れた。
静かな寝息が零れた。
部屋にいると思われた娘の不在に気付いて、父親は慌てた。時間をくれと言った娘は、泣いてはいなかったか。何故泣いたのだろう、と不思議がる彼に、その答えを妻が与えた。
「想い人があったのではないかしら」
「それはあってはならんことだ」
父親は焦り気味に妻に言った。
「第一、どこで男と出会うというのだ」
「それは…」
答えにつまる妻を娘の部屋に置いて、父親は召し使いを呼びに行った。城から消えた娘を探させるつもりだった。どんな手段を用いても連れ戻さなければ。
召し使い達が散り散りに城を経って数時間後、見慣れぬ乗り物に乗ったナコウを、彼等は見つけた。それは素晴らしい速さで東へ向かっていると言う。乗り物を操っているのは、見知らぬ者。それがナコウより五つほど年上の若者に見えたと召し使い達が報告すれば、父親は憤りをもって答えた。
「そんな奴は知らん。何があってもナコウを連れ返せ」
「男のほうはどうするんです。捕まえますか」
「殺してしまえ」
言葉は、残酷な響きを持っていたわけではなかった。ただ意味することが、残酷であっただけだ。
魔法を施された馬が普段の何倍もの速さで草原を駆けていく様を、常人が見たらば何を想ったことだろう。疾駆する馬は息も切らさずに、背に乗せたザゲツの家来達を振り落としもせずに、よく走った。
東へと、陽の昇る地を目指して逃げていくガイユとナコウとをよく追い掛けた。
開発中だとガイユが言った船は、それほどのスピードは出なかった。それでも滑らかに優雅に空を飛ぶことができたのは、ガイユの持つ魔法力のおかげだった。
音よりも早く雷が飛ぶ。
ザゲツから力を与えられた家来の一人が、主人の言葉を忠実に遂行した結果だった。
最初の雷はガイユの船をそれた。二度めの突風は船を少し揺るがせた。傾いた船の中で、ナコウも言葉を紡ぐ。
「光の言霊よ、翠の双璧を彼等に」
ナコウの言葉に導かれた魔法が、空をつっきって展開する。追う者達の前方に翼のような形をした二つの巨大な力が突如現れ、宙を割く。まばゆい光へと船は飛び込み、追うほうの目をくらます。
負けじと放たれた水飛沫が光の中を駆け巡って道を指し示せば、船はすぐに光から逃れて高き天空を目指す。
再び、雷鳴。
鼓膜が破られるかのような音が耳もとを掠め、二人の乗った船の中に視力を奪うかのような強力な光が溢れた。
がしゃん、と音がした。
ガラスが割れるより、もっと鈍い音だった。
光と同時に船を揺さぶった力は、座席のガラスの屋根をも貫く。ナコウの目の前を風が吹き抜けた。
空いた穴から外の冷たい風が吹き込んでくる。風に乗ってくるのは、つんとする血の臭い。
「嫌…ガイユ!」
悲鳴を飲み込み、ぐったりと背もたれに寄り掛かる恋人の名を呼んだ。
「しっかりして、ガイユ!」
「…ごめ…ナコ…ウ…」
「冗談は無しよ、いい?」
「お…れ、嘘…ついちゃ…ったよ…」
「嘘よ。やめてよ、そんなの無しよ、ずるいわ」
「…きみだけ…でも、逃げな…よ…」
「…いいえ」
毅然とした口調で、ナコウは言い切った。
「逃げないわ」
きつい眼差しを割れた窓の外へ遣る。迫ってくる追う者達の姿が見える。彼等を睨み付けながら、腕は優しく頭を抱きかかえ、まぶたを閉ざしたガイユに向かってつぶやいた。
「私は決して逃げない」そんな音は初めてきいた。
人の死にゆく魂の叫びなど。
もう二度と聞きたくないと思った。
壊れゆく崩落の音など。だから私は、決して逃げない。
この現実からも、両親からも、自分の心からも。
あなたからも。
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