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 雷鳴     喪びに赴う 
 雷鳴     ほろびにむかう 



 誰がために人は泣くのだろう

 輝きを伴った細長い竜が数頭、地へと落ちる。まばゆい光が数秒間空を支配して、その直後に轟音。音は遠くまでも広がっていく。
 竜の咆哮が地を震わし地平の彼方へ消えていく。
 滝のような竜の涙が地を叩き、渦巻いて流れていく。
 激しい雨の中を、進む葬式の列。明かりは灯されず、闇に紛れて墓地を目指す。
 棺桶を叩く雨音は聞こえない。



 空に城を構え、悠々と暮らしていた偉大なる魔法使いが、贅の限りを尽くされた天蓋付きの寝台で静かに眠っている。夜も更けているというのに、側にはその妻と、まだ成人していない息子とが控えている。齢七十を数える初老の魔法使いが安らかな寝息をたてているのを、その妻はくいいるように見ていた。新緑を思わせる翠の瞳には影がさしていた。端から見れば、病を冒しているのは、白く肌の透き通った妻のほうだと思われたかもしれない。
 実際、病に冒されていたのは、城主のほうだった。強大な魔法力を持ってしても癒せない病だった。原因はわからず、治療法もわからない。ただ囁かれたのは、空の大気薄き地に住まうゆえの病気ではないか、ということだけだった。
 ここ数日、城主の意識は定かではなかった。今夜が峠だろう、と医師達は口を揃えて言う。だから妻は晩年に生まれた息子と共に、こうして夫の側に控えているのだ。いつ「その時」が来ても良いように。
 いま少し、眠る老人が大きめに息を吸い込んだ。
 はっとした妻が、夫の顔を見遣る。偉大なる魔法使いはゆっくりと息を吐き出し、そしてそのまま。息を吸うことはなかった。
「あなた、あなたっ」
 呼吸を止め、静かに息を引き取った夫の顔を抱いて、寝台に崩れかかるようにもたれて、妻は何度かそう呼んだ。
 呼び掛けに応える声はなく。
 頬を伝うゆるやかな水の流れを、側に控えた息子が、シリョウが不思議そうに見ている。
 母の泣く理由が、この少年にはわからなかった。頬から滴った雫が母の服の襟元に吸われていく様を、何か神聖そうな面持ちで見ているシリョウには今、悲しいと思える心がなかった。喜びも不安も楽しさも悲しみも、全て忘れてしまっていた、膨大な古えの知識を前に育ったシリョウは。怒りさえも。
 不思議で仕方なかった時期もあった、何のために、誰がために人は泣くのだろう、と。けれど文献はそれを教えてはくれなかったし、次第に興味も薄れていった。
 母が涙する姿は、やがて記憶から消える。
 父の安らかに眠る姿も、やがて記憶から消えるだろう。
 残るのは、父譲りのくせのある黒髪と母譲りの綺麗な緑の瞳と、そして膨大な知識と財産。きっとそれだけ。
 尊敬する人が涙した。
 くすんだ金色を束ねた紐が解けて肩に落ち、結い上げられた髪がはらはらとばらけるのにもかまわずに、その人は泣いた。
 声を殺して、何度か肩を震わせて。
 それが何を意味するのか、シリョウにはわからなかったけれども。それは鮮やかな衝撃だった。
 決して人前では弱さを見せない母が泣くなどということは。
 窓から見える地平が、本物ではないと知っている。
 宙に浮かんだこの空中城の、地の縁だと知っている。
 本物の地平とは、どんなものなのだろう。
 厚いガラスを通して見える空は何も答えてはくれない。
 シリョウは、母を残して部屋を出た。誰もいない廊下がやけに長く感じられた。



 竜のごとく空の吠える嵐の夜に、それは密やかに行われた。列を成す人の数は少なかった。妻と息子と、信頼のおける幾人かの召し使い。それだけ。息子たるシリョウの導いた魔法の大気が一行を雨から守る。誰も濡れていなかったが、悲しみが体感する寒さを助長しているようだった。雷雨を意識の遠くに聞きながら、進んでいく葬礼の行列。彼等は無言で墓地を目指した。偉大なる魔法使いが眠る棺桶を埋葬するために。



 城主の席が空いていたのはわずか一年。
 それは長きを生きる魔法使いにしてみれば短い時間であったが、主人のいない城に変化をもたらしたのも事実。
 今、大広間に長く敷かれた絨毯の上を歩く者がいる。
 普段は纏わないような贅沢な衣装に包まれたシリョウが、何の表情も浮かべずにゆったりと歩いていく。その先には、城主だけが座ることを許された椅子がある。
 道のりは、やけに長く感じられた。
 やはり絨毯の続く四段の階段を登り、上部に据えられた椅子に腰を下ろす。
 それだけだった。
 それだけで、終わったのだ、継承の儀とやらは。
 シリョウは城主となった、その情報が蒼天城の全てに広がっていっても、彼は何も感じなかった。前と変わったのは呼ばれ方くらいだと、面白くもなく思った。外には相変わらず青さを湛えた空がある。何も変わっていない。
 窓から見える地平が、本物ではないと知っている。本物の地平を、見てみたいと思った。今なら何でも許されると、不意にそう思った。
 思ったときには、唇が動いていた。

 ――地を、見せよ我が城よ。
   支える全てのものよ、持てる力すべて解き放て。

 城を支えていた根が枝が幹が、互いを離していく。絡み合う腕をほどいて、それぞれが孤立していく。地が震えた。
 街をゆく商人も、炊事中の女性も、馬に乗った騎手も、その振動に一瞬空を見遣った。何ごとが起きたのか、当人以外には皆目見当もつかなかっただろう。
 決して落ちることのないと言われた蒼天城が、落下を開始した。自由落下とは思えないゆっくりとした速さで。
 地にて空を仰いだものがいる。神よ、とつぶやいたものは幾人いたことか。影が急激に広がって、空中に浮かぶはずの城が落ちてくる恐怖に、地上の人々は心震えた。
 幸いしたのは、蒼天城の真下には街がなかったことだろう。
 一面に広がる草原の上へと、音も無く城が落ちた。
 軽い振動を感じて、城とその周りに住まう人々が家の外へ出た。そのとき空がいつもより高くなっていることに気付いた者は、幾人いたことだろう。



 呼び声に振り返る
 畏れも敬う心もなかった
 けれど今、
 自失を前にして、人は泣くのだろう。
 場違いな花の香りがした。
 優しそうな瞳が閉じられ口元は微笑みを浮かべた




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