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 授雲     瑣らない黎きもの 
 授雲    とるにたらないおおきもの 



 壁に掛けられた幾枚かの高価な絵画も、暗がりでは細部まで見えない。
 木製の額の金箔がわずかな明かりをとらえて少しだけ元の色を取り戻す。
 絨毯の敷かれた廊下に、一筋の光が漏れた。扉のほんの少しの隙間から漏れて反対側へと一直線に伸びる光は、部屋の持ち主が灯した蝋燭の明かりだ。燭台を手にして、ナコウはそっと扉を押しあけた。光の束が広がっていく。重たい扉が床を擦る音は、絨毯の毛に飲み込まれて消えていく。
 人一人分通れるだけの隙間を作ると、身をよじらせて廊下に出る。再び動かすために重たい扉にもたれかかって、それを背で押して、ゆっくりと閉ざしていく。
 手にした燭台の炎が小さく揺らめく。風が吹いているのかしら、と思ったとき、ナコウの前に姿を現した人がいた。炎に照らされた髪が、薄く金色に輝いている。空の蒼を瞳にはめ込んだような綺麗な眼差しで、その人は小さく微笑んだ。
「気をつけて行ってくるんだよ」
「兄様…っ!」
「無茶はしないように。それと、朝までに帰ってくるように」
「…なんでもお見通しなのね」
 ナコウは、降参の手振りをした。そんな妹の頭を片手で抱き寄せ、自分の胸元に押し当てて、ラジョウが言う。
「相手だって、見当はついてるよ」
「それは鋭いことね」
 楽しそうにナコウは答え、消えかかった炎に軽く息を掛けて明かりを元に戻す。 
「行ってきます、兄様」
 そう言い残してゆっくりと暗がりに消えていく妹をラジョウは見送った。ナコウを中心に小さく広がる光の輪が、徐々に小さくなっていく。不意に光が消えて闇が戻る。ナコウが角を曲がって階段を降りはじめたのだろう。足音は聞こえない。急な闇の訪れに二、三度まばたきをすれば、視界が少しずつ慣れて暗がりも弱まってくる。それからラジョウは自室へ戻った。愛おしい妹が幸せそうなことに満足を覚えながら、夢の中へ落ちていく。



 黒いヴェールを顔にかけて、ところどころ街灯の照らす細い夜道を歩いていく。時折鳴く梟の声が怖くないと言えば嘘になるが、懸命に恐怖と戦いながら、約束の場所へ向かう。ナコウが定められた場所に着くよりも先に、途中で合流したのは伯爵の息子ガイユだった。初めて会ってからラジョウを交えて数度、二人きりならこれが最初、顔を合わせた。
「ごめん、もっと早くに追い付くはずだったんだけど」
 言い訳がましくならない程度に、ガイユは謝罪した。
「かまわないわ、そんなことは」
 優しく微笑んだナコウは、顔にかけたヴェールをとった。色白の肌は、暗がりの中でよりいっそう白く見えた。
「今、幽霊みたいだな、って思っちゃったよ」
「それは褒め言葉かしら」
 反撃を許さない眼差しを向けて、好戦的にナコウが言う。
「残念、脅し文句なのでした」
「あら、私全然怯えていないわよ」
「だって今から怯えさせるところだから」
 言い終わらないうちにガイユはナコウを思いきり抱き締めてその唇をかすめ取った。背に回ったガイユの腕からようやく解放されたナコウが聞いたのは、楽しそうな彼の声だった。
「ほうら、怖かったでしょ」
「…ええ」
 悔しさと後ろめたさを感じながら、ナコウは頷く。
「でもここへ来る道のほうが、よっぽど怖かったわ」
「そりゃ残念だ」
 ガイユはナコウの手をとると、加減はしつつも強く引っ張って歩き出した。夜道を淑女が怖がるのも無理はないと思ったが、楽しさを知ってもらおうと思って誘い出したのだ、せっかくだから歩かなくては。怖がらせてばかりでは意味がない。
 賑やかな声が飛び交うのは、夜も営業を続ける店が立ち並ぶ通り。ナコウの手をひいて入っていくと、二人の身分を知るはずもない商人達が騒ぎ出す。許可を得なければ商売もできないのに、その許可は夜の営業までは範囲ではないというのに、彼等は陽気に歌など歌っている。これほどの騒がしい夜の風景など知らなかったのはガイユも同じ。彼等の口にのぼる歌は、それがまた、二人の知らない国の言葉だったから、二人は異国にでも彷徨い込んだかのような錯覚をしばし楽しんだ。
「夜の街って、素敵ね」
 すっかり気に入ったようで、ナコウは酔ったような瞳を投げた。実際、少しの眠気も手伝って、半分気が大きくなっていたのかもしれない。それを見て取ったガイユは、すかさず問う。
「ついでに、俺の家の中も見ていくかい?」
「それはお父様やお母様に悪いわ。起こしてしまうでしょ」
「大丈夫だって」
「それに、兄様に、朝までに帰れって言われてるの」
「あーそりゃだめだな」
 残念そうにガイユは言った。ラジョウの頑固さは祖父譲りだと本人から聞いたが、岩石譲りの間違いだろうとよく悲観的に思ったものだ。これでナコウを返さなかったりしたら、あとで何を言われるか想像したくもない。
「それじゃ、朝までのひととき、楽しいところへ案内しよう」
 手をひかれて歩いていく夜の街並みを、ナコウは不思議で不思議でたまらない、と言ったふうに眺めていく。昼間とは打って変わって静かで、安らかで、それでいて何かを隠しているような不安。同時に自分も隠され守られているようで落ち着く。
 闇は心を落ち着かせると誰かが言ったけれど、それは全くの嘘だと信じていた自分を恥ずかしく思った。
 闇は、こんなにも静かな気分にさせてくれるではないか。
「着いた」
 ぼんやりと聞いたガイユの声は、やはり楽しそうな声色だった。彼の声を聞いていると、心が安らいでくるから不思議だ。
「入るよ、気をつけて。段差あるから」
 そっと置いた足は、何かやわらかいものを踏んだような感覚を伝えたが、ガイユがそのまま入れと言うので歩みを進めた。目の前を覆う布をかき分けていくと、そこは劇場だった。屋外に設置された劇場に、簡単な屋根と壁が布で張られている。客はまばらで、舞台に役者はいなかった。
「まだ始まらないよ、あともう少し」
 そんなガイユの声を聞いた気もしたが、いい加減眠気に耐えられなくなっていたナコウは、静かな寝息をたて始める。
「おいおい、こんなところで寝るなって」
 言いながら起こそうとしないガイユは、ナコウの寝顔を見下ろして、可愛いなぁなどと考えていた。まもなく始まった劇の内容など、ガイユにはどうでもよかった。このままが続くならば。空の孤島で暮らすのも悪くはない、と思った。
 たとえ嵐に襲われ全てが流され尽くしても。




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