その昔に魔法使いと呼ばれ畏れられた者達がいた。
彼らは竜の亜種、その眷属までも思うままに従え、古来より権威の象徴としての住処を空中に築いた。その彼らは今、ほとんど見ることはできない。
しかして幾許かの強大な力を有するものは、未だに力を持続させていることもまた然り。
なかでも大陸最大と謳われた一人の偉大なる魔法使いは、いまだ住処たる城を難攻不落のまま維持し得るだけの力を残している。
残された数少なき魔法使いの一人が持つ、天高き地にて更に上へ上へとそびえ立つその城を、蒼天城と呼ぶ者もいる。
夜明けの海から切り出したかのような鮮やかな青い石を使って築かれた城壁が、そう呼ばせる所以なのかもしれない。まるで宝玉でもはめ込んだかのように今なお輝く城壁は、歴代の城主の誇りとするところだった。
現城主には、年の離れた従弟がいた。彼の名はザゲツ。彼は偉大なる魔法使いの親族であることを誇りに思っていたし、従兄を尊敬もしていた。ただ一つだけ気に入らないことがあるとすれば、それは城主の跡取りのことだった。
従兄に、もはや跡継ぎは生まれないであろうと囁かれていた城主に、息子が授けられたことだった。
それは嵐の夜だった、という。どういう風の吹き回しであったのかザゲツにはとんと見当もつかない出来事だった。父譲りの綺麗な黒髪と母譲りの緑色の瞳とをその子共は持つという。
彼はいずれ、城と、現城主の財産とを譲られるのだろう。
ザゲツにはそのことが気にかかって仕方なかった。
跡継ぎのいない従兄の財産は全て自らの下に転がり込むのだろうと、密やかな期待を寄せていたはずだった。無論、従兄にはその期待など知られてはいなかっただろうが。
「とにかくも、どうにかしなくてはならん」
尊敬はしていたが、信頼は出来なくなった。
誇りに思っていたが、同時に憎しみも抱くようになった。
「どうにかして、あいつの財産を」
莫大な知識と財宝の山とが、城主の住まう下に眠っていると知っている。代々受け継がれてきたものだからこそ、その規模は想像もつかないほどに膨れ上がっているはずだった。
「あいつの財産を、手に入れてやる」
決意を固め自らの部屋でその方法を模索していたとき、扉を叩く音がしたのに気付いて、ザゲツは顔をあげた。
「……誰だ?」
「私です、あなた、もうお休みになったほうが……」
そう言いながら扉をあけて顔をのぞかせたのは、ザゲツより六つほど年の若い妻だった。美しい金の髪の一房が、するりと肩を滑って胸のほうに流れた。絡まることのない極上の絹のような金の髪を背へと手で流しながら、彼女はもう一度言った。
「お休みなさいませ、あなた。夜も更けましたわ」
「そうだな。もう寝るとしようか」
ザゲツは席を立って妻のほうへと歩み寄った。優しく妻を抱き締めてから、二人は寝室へと向かった。
一面にとまでは言えなくても、それなりの広さを持つ草原が横たわっている。
草原の先は空に続いていて、見慣れた者でなければ不安を覚えさせたかもしれない。
とはいえ地上の生活を知ることのない、草と空との境に見慣れた者だけがこの場所にいることも事実。
青臭い草の香りが立つ場所を、成熟しきっていない女性が歩いていく。女性を連れ出した本人、ラジョウがその後をついていく。ゆるやかに波打つ母譲りの豪奢な金髪を持つ娘は、ラジョウの妹だった。彼女は服の裾が草の露で濡れてしまうのを気にしていたものの、やがてそれも気にしなくなった。
妹はラジョウの操る馬に乗せてもらい、騎乗の人となって兄の背にもたれて目を閉じた。長い睫毛が重なる。口元に優しい笑みを浮かべ、思ったよりも随分乗り心地が良いのね、とつぶやいた。
ラジョウは答えずに、背を見やってただ優しく微笑み返しただけだった。愛おしい妹が幸せなら、それ以上に望むものは何もない。
ラジョウと妹を乗せてゆっくりと歩いていく栗毛の馬は、そのうちに聴き慣れた足音に気付いて耳を動かした。馬の仕種に気付いたラジョウが振り返れば、見慣れた葦毛の馬が近付いてくるのが見える。
「よぉ、久しぶり!」
声を掛けてきたのは、黒髪の騎馬。共に何度か馬を走らせるうち、すっかり親しくなったガイユだった。親友と呼んでも違和感のないほどの付き合いがある。彼は近距離まで来ると、ラジョウの背にもたれて目を閉じた娘に気付いたようで、物珍し気に尋ねた。
「この人は?」
「俺の妹。名前は、自分で聞いてみるんだな」
「ああ、そういうこと言う」
ガイユはふざけながらラジョウを非難したのち、そっと娘に声を掛けた。
「お嬢さん、起きてるなら返事してくれよ」
「…ん、誰? あれ、兄様?」
背にもたれかかったまま、半分覚めやらぬ眼差しで、娘は答えた。自分で自分の声に意識を刺激されて、海の底のような深い紺色を宿した瞳が、徐々に覚醒していく。
「あなたは、誰?」
「俺は、ガイユ。ラジョウとは親友」
「兄様のお友達? 今初めて聞いたわよ」
「すまない、まさか遭遇すると思ってなかったからな」
言いながら楽しそうな表情の兄を見て、妹は確信犯だなと気付いた。
「酷いわ、私のこと子供だと思っているでしょう」
「子供だよ、十分。可愛い子はいつまで立っても子供さ」
「そうそ、ところで、お名前なんて言うの」
兄妹の会話に割って入るようにガイユが口を挟む。
妹のほうが唇を動かし、かろやかなリズムで名を名乗る。
「ナコウ、よ。あまり綺麗な名前じゃあないと、自分でも思うけれど」
少しだけそっけなく言う仕種を、可愛いとガイユも感じて、そんな妹を持ったラジョウに少しだけ嫉妬した。
馬の向きを変えさせたラジョウに、ガイユが言う。
「もう帰るのか?」
「俺の意志で、というより、両親が黙っちゃいないからな」
「…大事にされてるのは兄様だけよ」
つまらなそうにつぶやいたナコウの声が、ガイユの鼓膜に焼き付いて離れなかった。
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