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 二十三夜月 ――――十字架の影を踏み、丘を越えていく


 
   通路を通って聞こえてくる詩に、オーシュは歩みを止めた。
 潮の香漂う風に乗って、詩が聞こえてくる。キエンが謳っているのだろう、古い発音が聞こえてくる。
「…祈りの言葉を唱えても」
 目を伏せて、蘇るのは彼の後ろ姿だけ。
「想いを込めなければ届かない」
 だが想いを込められる人間は、あとどのくらい残っているのだろう。
 


 非常事態が過ぎ去ったあとも、ゲイルシップ艦内は慌ただしく動いていた。単機で突っ込んできた砦のエアシップの所為で、混乱がおさまらないでいたためだ。
 破損はそれ程酷くはなかったが、意外な攻撃だったために修理に手間取った。肝心のシリョウが上の空だった事もある。
 報告が来るたびに、シリョウは複雑な思いで聞いていた。
 単機、というのがどうにもひっかかって仕方ない。
 自分から申し出て単身、敵陣へ向かっていった、気の小さな友人を思い出させた。
 いつになく強い口調で、彼は一人で行くと告げたのだ。
 課せられた使命は、砦の永遠の封印。
 古代に栄えた奇蹟の力を、その少年は宿していた。



 複座式で出るから飛び立つのだけ手伝ってほしいと申し出たサレイについて、格納庫へ足を向ける。
 コクピットに乗り込んだ彼に、留まることを望んで声をかけた。
「たった一機で、何ができる」
「封印なんて、一人でもできるでしょう。それに祈りに想いを込められるのは、もう自分しかいないのですから」
 毅然と答えた彼を、もはや止めることはできないと感じた。
 それに砦に向かったほうが、彼にとっては良い事かもしれないと思った。本人が露ほどにも知らなくても、シリョウはそこに彼の肉親がいることを知っている。
 前席のサレイが急かしたので、シリョウは後席に乗り込んだ。このままサレイと一緒に、ゲイルシップから永遠に逃げ出してもいいかもしれない、という悪戯めいた思いが胸をよぎった。
 起動させていく。エンジンが完全に動き出した状態で、シリョウは後席に立ち上がった。
「失敗は気にするな。したいようにしてきなさい」
 スロットルバーを足で蹴り上げた。エアシップが宙に浮く。
「有難う、シリョウっ」
 エアシップがゲイルシップから飛び出す瞬間、シリョウは座席を蹴って宙へ跳んだ。そのすぐ下を、胴体が滑っていく。格納庫を出て、エアシップが飛び立つ。
 シリョウが格納庫の床に足を着けたとき、彼の乗った複座式エアシップはすでに、闇夜に紛れて見えなくなっていた。
 それが気の小さな友人を見た、最後となった。



 慌ただしい艦内で、ぼんやりと考え事をしていた。
「…たった一機で、何ができる」
 同じ呟きを繰り返したとき、報告書を携えずに女性が入ってきた。
「思うのですが、サレイの代わりは使わないのですか」
 彼女は彼に課せられた使命が果たされていないことを、暗に告げた。
「他の者を向かわせますか」
 何もわかっていない、とシリョウは嘆いた。封印、と簡単に口では言えるが、それが実行できるのは限られた者だけなのだ。
「いや、いい。あの砦を封印できるのは、サレイと、もう一人血のつながった…」
 名前は知らない、だがサレイの記憶から消した彼の兄が、その砦にいることは、すでに調べてあった。
「では、何もなさらないと…?」
「待てよ。抑えられないのだろう、だったら壊すしかないじゃないか」
 封印できるもう一人の人物は、決してそれを良しとしないだろう。
 砦の封印により古えの力を取り戻すつもりでいたシリョウは、方向性を変えた。新たなゲイルシップの行動、それは、砦を破壊して、奇蹟の力を取り戻すこと。


 
 砦を守る者達が、一つの部屋に集まっていた。
 ミャクイクが他の者を呼んだのだ、大事な話があると言って。
 キエンは書を抱え、オーシュは腕組みをして、ソウフは頭に布を乗せたまま、ミャクイクの書斎を訪れた。
 彼は、厳かな声で言った。
「この砦を、捨てようと思う」
 数秒の間があって、キエンが声をあげた。
「ちょっと待ってよ、何々だよ急に…」
「急ではない、そのくらいわかるだろう、キエン。我々は最初からこの砦にいたわけではないのだよ。持ち主がいない間、借りていただけだ」
「捨てたのを拾っただけだろ? 今更拾いに来たって遅えや」
「違うんだ、キエン」
 ソウフが、なだめるように言う。裏切られたような顔でキエンは振り返り、くってかかった。
「何が違うんだよ、お前も捨てるっていうのか、この砦を?」
「捨てるのではない、返すだけだ…もとの持ち主にね」
「二百年も放っといたくせに、持ち主だ、なんてあんまりじゃないか。それにこれは貴重な、世界共通の遺跡なんだぞ、あんな得体の知れないやつに渡しちゃっていいのかよ」
 否定に必死だったのは、多分キエンだけだった。
 オーシュが、冷めた眼差しでキエンに問う。
「…何を守る? 何を守るためここにいる?」
「何って、砦を…」
「砦を、何のために守るんだ、キエン」
 遺跡が…と言いかけて、気迫に圧されて口を閉ざすキエン。
「我々の生きる上で役立つ何かを、この砦は秘めている。だからこれまで砦を守ってきた。この砦を解明することができれば、我々はそれを、生きることに役立てられると考えたからだ」
 けれどキエン、とオーシュは続けた。
「俺たちの生活を守るはずのものが、同時に俺たちを脅かすのならば、話は別だ」
「だから捨てるのか、今まで必死に守ってきたのに!」
「守ってきたのは砦じゃない、もっと象徴的な、俺たちの拠り所だ」
 オーシュの声に、キエンはもう反論を唱えなかった。自分に話が回ってくる前に、すでに結論づいていたのだ、と悟ってしまった。
「エアシップはまだ飛べる。だからそれで、別の地へ行こう。とにかくここにはもう、俺たちの拠り所はない」
「だからみんな、ここを出ていっただろう?」
 言い訳するみたいに、ソウフが言った。それで充分だった。
 悟ってしまっていた、自分はもうここにはいられないのだと。
 次々と記憶が蘇った、熱い何かが、溢れて、頬を伝わって。
 涙のせいで視界がぐちゃぐちゃになる。




 一面に広がる、夜の空。思ったよりも強い風が吹いていた。冷たくて気持ちの良い空。風にさらわれそうになりながらも、必死に舵を握る。
 同じ高さで、追われるようにして、雲が早いスピードで動いていた。
 月明りはなく、頼りにするのは自分の目だけ。
 それでも、空を覆う星の地図が、行く先を示してくれていた。
 飛び立ってしばらくもしないうちに、自分を追いかけてくる何かに気付いた。振り向くと機影が二つ。
「一人でいけるって言ったのに…」
 味方機が遠くに見えていた。
 帰れ、という信号を撃とうとしたとき、弾が放たれるのが見えた。
 信号弾だと思った。
 しかし予想は外れて、飛んできた弾が胴体の脇をかすめた。振動に目を瞑る。別の弾が左翼に被弾して、何事かと思う間もなく、煙りがあがった。失速する自分の機体があった。
 二機が遠ざかっていく。
 味方機だと思ったが、自分は見誤ったのだろうか…。
 確かめることもできないまま、コントローラを握ったままで、サレイは気を失った。
 翼を持つはずの人工の魚が、失速したまま空を深く潜っていく。
 下には闇色の大海が広がっている。




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