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 下弦の月 ――――手を額に。救われなかった魂を天に


 
   自分は何をしているのだろう。彼をいかせてしまった。
「手を伸ばしたとして、空は掴めたか」
 窓から見えた光景を、オーシュは多分、忘れないだろう。



 ゲイルシップの破片が空から降ってきて、砦も一時、外出禁止になった。しかし瓦礫の雨が止んだあとも、誰も外に出ようとはしなかった。
 絶えまなく続く重い雲が空を覆っていた。それが一層、気分を悪くさせる。彼がどうなったのか、ゲイルシップの状況がどうなのか、確かめにいこうとする者はなかった。
 だから外壁の状態を確かめに出たミャクイクとソウフが、あの後最初の外出者だった。
 とはいえ外に設けた臨時の台の上を壁に沿って歩いていくだけで、それは以前にラクスイとサレイがやっていたことと変わらなかった。
 壁はそれほど、痛んではいなかった。
 降ってきた瓦礫が、それ程大きな塊ではなかったことを示していた。
 多分、ゲイルシップのほうでは今、破損箇所の修理に追われていることだろう。しかしそれもすぐに終わるはず。
 ならばフウカのした事は?
 それは聞いてはいけない質問だった。
 彼はきっと何か結果を求めていたのではなく、ただ自分の望むままに飛び立ったのだろうから。
 外壁に触れながら、減ってしまった仲間をミャクイクが嘆いた。
「どこで間違えたのだろうな、我々は」
 空を見上げる。重い雲が見える。
「間違ってなんかいませんよ」
 むきになってソウフが否定した。壁に頬をあてた。冷たい。
 その様子を見ながら、ミャクイクは潮時が近いと感じていた。
「かがり火の消えた灯台を、誰が必要とする?」
 空を見上げる。暗い天井が広がっている。そこから落ちてきた一雫が額に当たって弾けた。
 ぽつり、ぽつり…と、雨が降り出す。
 中へ入りましょう、とソウフは言った。
「雨宿りくらいはできますから」
 そうだったな、とミャクイクは応えた。けれど、その灯台の中はすでに雨漏りが酷くなっているのだ、とは言わなかった。そんなことは多分みんな知っている。



 切り岸の上に立つ砦、それはまだ世界が奇蹟の力で満ちていた頃に建てられた、古いが堅牢な城。前の城主に捨てられて久しいその砦をミャクイクが拾ったのは、もう何年も前のこと。
 それからいろんな人が来て、去っていった。
 今は、ミャクイクの他に、三人の学者、キエン、オーシュ、ソウフがいるだけ。誰しもがこの貴重な古代の遺跡を護ることが自分の役割だと思っていたが、その実、砦に守られるようにして、過ごしてきた。



 床に広げた、埃の被った文献をめくるキエンの手が止まった。
 部屋に入ってきたオーシュが、本を挟んで向こう側に座った。
「それは、どうした」
「ソウフと二人で、過去の残骸漁ったら出てきた」
 嘘をつく元気はなく、正直に答えた。するとオーシュは書のひとつを手にとり、ページをめくった。
 視線を手元に落としたままで、言う。
「これを見て、何を思う。過去はそれほどに大事か」
「大事さ、そう簡単には捨てられないよ。記憶も、この砦も」
「そうか」
 それ以上の問いかけは、無駄と判断してオーシュは立ち上がる。
「ここに昔の、祈りの言葉が書かれている」
 キエンが顔を上げると、オーシュはその書を放ってよこした。
「発音はできるんだろ?」
「勿論だ」
 キエンはその書を拾い上げた。ページの最初に書かれた文句。
 それは祈念。古えの、昔むかしの祈りの言葉。



 濡れた髪をかきやりながら、ソウフは通路を歩いていた。全身から水が滴っている。見れば、窓にも水滴が張り付いていて、ガラス窓を滑っていた。外は暗くて何も見えない。
 向かいから歩いてきたオーシュが、織られた布を持っていた。
 彼がそれを放ってよこす、ソウフは上手く受け取った。
「有難う」
 礼を述べても、オーシュは全く聞いていない様子ですれ違い、行ってしまった。後ろ姿を見送って、ソウフは布を頭に乗せた。
 水を含んだ髪を包むと、やわらかい、風の匂いがした。
 まだ天気が良かったうちに洗濯され干されて、気持ち良い風をたくさん吸った布だった。



 一定の旋律に乗せて、古い言葉を発音していく。
 歌うことの苦手なキエンにもその詩を謳うことができた。

――白い鳥が飛んでいく、青空の向こうで君が笑う
  五色の虹が架かった滝にて、水飛沫を浴びながら
  ひざ下を覆うは雲の衣、透き通った風の色
  鈍色の葉が揺れたなら、声を揃えて唱えよう
  巡れ巡れ、巡れ想いで、色褪せぬままで留まるように
  廻れ廻れ、廻れ記憶よ、決して薄れることなきように

 空へと声が昇っていく。




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