二十日余の月 ――――銀色に輝く、飛沫立つ海を渡り
どこからどこまでが空で海なのかわからない、暗い闇を見ていた。その闇が少しずつ薄くなっていく。
深い紺色の地平線を、一条の光が広がった。地平線沿いに横に伸びた輝きの中から、更に大きな輝きが生まれる。
海面に手を伸ばす、陽の輝き。
いつにも増して美しい銀色の海面が見える。
西の空が明るくなっていく。
それは夜明け、一日のはじまり。
風向きを変えた朝の風が、優しく砦の肌をなでた。陽を浴びて、銀に染まる海。
古代王国時代に築かれたこの砦に残された、昨日見た文献によれば、あの海は遥か空の果てに繋がっているという。
それさえも信じたくなるくらい、幻想的な光景。
いつも見ることのなかった夜明けを、キエンは屋根の上で見ていた。傍らにソウフ、そしてフウカ。
…と思ったのは気が早かったようで、すでにフウカの姿はなかった。
「どこに行ったんだろ、あいつ」
「ん、本当だ。こんな早くから、一体どこへ」
不思議そうに首をかしげたソウフも、キエンも、始まる宴を予感することはできない。堅牢な城が、まだ緑豊かな大地に囲まれた場所に建っていた頃。
最後の城主シリョウがまだ女性を知らなかった頃。
彼にとっての海は遥か遠く、記憶の奥のイメージでしかなかった。
彼はいくつかの文献を集めた――海に関する様々な書物を。
海は空のように蒼いことが多かったが、深く碧く染まったり、白さを散りばめたり、紅くなったり、銀色の衣をまとったり、様々に姿を変えるようだった。
また海は、悪い嵐が来るとそれと戦うかのように強く暴れて、嵐を威嚇するのだ、とも書かれていた。
海が空の果てに繋がっていると、説を展開する学者がいた。シリョウは彼を文献の中だけでしか知らなかったが、その言葉に興味惹かれた。
「果て……か」
それは永きを生きる魔術師にとって、一種憧れのような響きがある。
果てを見たい、と思ったのは、このときだけではなかった。けれどシリョウがその思いを実行することは、終になかった。彼はやがて、一人の女性と出会ったために。「…シ……様」
女性の声がする。
「……ョウ様…」
とてもすぐ側で、耳慣れた女性の声がする。
「シリョウ様、お目覚めくださいまし」
は、っと目を覚まして、ゲイルシップの青年は傍らに立つ女性に気がついた。軽く左右に頭を振って、飛んでいた意識を取り戻す。
「なんだ、何があった」
「下の様子が変だ、という報告が入りまして」
女性の差し出した報告書に目を通す。早朝から砦を飛び立った、ただ一機のエアシップがこちらへ向かってきているという。
「間もなく、視認できるかと」
「わかった」
青年は短く応え、すげない答えに瞬間躊躇したあと、女性は続けた。
「様子が変なのは私も確認いたしました、全速力で、こちらを一気に目指しているもようです」
「なるほど、それは奇妙だな。たった一機で何をしようというのやら」
わ ら
楽しそうにシリョウは嘲笑った。
そういう一途な行動が、彼はとても嫌いだった。
かつて彼の父は、そうやって亡びを招いたのだから。夜通し開け放しにしてあった窓を、ひとつひとつ閉めて回る。オーシュが通路を歩いていたとき、エンジン音がした、すぐ近くで。
とっさに見やった空には、影は見えず、オーシュは眉を潜めた。
耳を済ます…すると音は、城内から聞こえてくるようだった。
思い当たって、軽く舌打ちをした。
「あの考え無しが…」
駆けていくと、思った通りの格好で、格納室に彼はいた。
風が吹いている。
奥の出口へと続くシャッターが開いていくところだった。
出口に一番近い場所に泊めてあったスピードボートのコクピットの中で、ゴーグルをしたまま彼がこちらを振り向く。
「何をしている、フウカ」
オーシュの冷たい警告の声に、彼は薄く笑った。
「行ってくるよ、オーシュ。自由になれそうなんだ」
「馬鹿なことを言ってる間があったら、とっとと飛べ」
飛んだら最後、戻ってくる気がないのは明らかだった。
けれどオーシュは、彼を止めなかった。
「見誤るな」
それは激励の言葉だった。屋根の上で、夜が明けていくのを見ていた。
幻想的な輝きが世界に広がった瞬間、聞き慣れたエンジン音の音に驚いて、二人は顔を見合わせた。
そして再び空を見たとき、一直線に上昇していく機影を見つけた。
古い型のスピードボート。シートに座っているのは、紛れもなくフウカその人だった。影が見る見る遠くなっていく。
向かう先は雲の中、そこに在るのは巨艦ゲイルシップ。
言葉にしなくても、彼がそれまで何を考えていたのか二人同時に思い当たった。
思わず身が固くなったのは、本能がそれを判断したためだろう。
フウカの乗ったスピードボートが、弾ける映像を見る。それは決して幻覚などではなく。非常事態を知らせる警報音が、艦内を駆け巡った。
やけに落ち着いた表情で、青年はそれを聞いていた。
「…たった一機で、何ができる」
誰に向かって呟いたのかは、自分自身にも定かではなかった。
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