立待月 ――――振り返らず、死に向かって生きるということ
キエンの腕にはめられた手枷は、容易に外すことはできなかった。
ミャクイクとオーシュ二人掛りで押さえこんで、工具で無理にこじ開けて、
それでも外すのに時間がかかった。
キエンの腕は赤く腫れ上がっていたが、医術の心得のあるオーシュが
見た限りでは、さして問題はなさそうだった。彼の予想通り、それはすぐにひいた。
翌日、ミャクイクの部屋を訪れる、キエンの姿があった。
「聞きたいことがあるんです」
部屋に入るなり、開口一番キエンはそう言った。驚きもせずに彼を迎えて、ミャクイクは一度立ち上がると、彼に席をすすめた。キエンがそれを断ったので、ミャクイクも座らなかった。
「何を知りたいというのだね」
「…ミャクイクは、ゲイルシップに誰が乗ってるか、ご存じですか」
「いや、知らないが」
「俺は会いました。やつは、シリョウ、って名乗ったんです」
砦に残された、古い文献がある。その中で最も新しいものによく登場する名前がある。シリョウ、というのがその名前である。
その名は、この城の最後の主として、文献に名を残している。
「でもそれは、二百年以上も昔のことだ」
「わかってます、だから不思議なんです。幾ら魔法使い達が長生きだからって、そんなにたくさん生きてはいられないでしょう」
「偽者、ということは」
「ありません、彼が嘘をついてないことくらい、わかるんです」
ミャクイクは黙り込み、しばらく考え続けた。キエンが嘘をついてないことくらいわかる。しかし、だとすると…矛盾が多すぎた。どれも間違ってはいないはずなのに。通路を歩いていく。二人が洗った通路はもう完全に乾いていて、色も元に戻っていた。フウカが、出撃前に開けた窓を閉めていると、背後で足音がした。
窓を閉めてみれば、そこに彼の顔が映った。
サレイだった。振り向かずにフウカは言った。冷たく告げた。
「言えよ、さっさと吐いてしまえ。何が気にくわねえ?」
困惑の表情をうかべたサレイが、ガラス窓に映った。それを見て、フウカが振り向く。どなった。
「行け、僕に何の用がある? 言っとくが懺悔なら聞きたくねえぞ、そのことはもう忘れたんだ、過去に縛られてんじゃねえよ」
「過去に縛られてるのは、君のほうじゃないか」
反論めいたことを、控えめにサレイが口にした。
「はっ。言うじゃねえか。エアシップもろくに操縦できねえやつが」
自分は飛べる、そう言いそうになって、サレイは口をつぐんだ。言えない。言うことはできない。自分にはまだ、使命が残されている。
「だいたいお前が来なければ…っ」
フウカが声を荒げたとき、それを遮るような爆音が轟いた。
「今度は何だっ?」
窓の外に見える、二機の影。窓枠に手をかけて、すぐに窓を開けた。
突風が埃を伴ってその隙間から入り込み、通路を渦巻いて消えた。
目を細めて、フウカが見やる。二つの機影。それは見慣れてしまったゲイルシップのものに似ていたが、胴体はそれよりやや長く見えた。透明なカバーのコックピットが、ふたつ、ずつ。
「…複座エア?」
初めてみる珍しい機種、でもどこかで見たことがあるような既視感。
思い出す間もなく、放たれる弾四つ。
ぱっと伏せて、フウカもサレイも耳を塞いだ。すぐ側で起こる耳をつんざくような轟音、そして揺れ。天井から細かい破片がはがれ落ちて、宙を舞い、二人の背中を灰色に染めた。
起き上がり、埃を払う。…埃を払う?
黒煙、自由落下、壊れたまま空から降ってきたエアシップ。瓦礫に埋もれて埃を被ったそれは複座式だったはず。乗っていたのは…サレイ、一人だけで。
フウカの記憶の針が、散った単語をつなぎ合わせた。
「お前、まさか…っ!」
複座式エアシップは一人では飛び立てない。一人が方向と速度を、一人が起動と攻撃を受け持つことになっている。飛んでしまえば操縦はできる、しかし飛び立つ為には、二人いなければならない。
「もう一人はどうした?」
フウカはサレイに詰め寄った。
「途中で落ちた、とか、そんなわかりやすい嘘をつくなよ」
「…」
「お前、わざと落ちてきたな? もう一人を脱出させてから?」
「…」
「どうした、なんで黙ってるんだよ、言えよ、…自分はゲイルシップから来ました、って! そうだろ、そうなんだろ? 言えよ、サレイ!」
伸ばされたフウカの手がサレイの眼前に迫ったとき、サレイは彼の腕ではなく、窓の外の機影を見ていた。
迫ってくる、影。放たれる弾四つ。
その一つが間違いなくこの窓を狙っていると、気付いて、サレイはフウカを押し退けた。
「何すんだよっ」
もがくフウカを、強引に床に伏せた、音がした、塞ぎ損ねた耳の鼓膜が酷く痛む、背中が熱かった、さっきより広範囲の天井が剥がれ落ちてきて背を打った、そんな痛みはどうでもよかった、目の前が見えているのかいないのか、そんなことどうでもよかった。
意識が広がっていく、なんだろう、これは。
聞こえるはずのない、ラクスイの声が聞こえた気がした。
――だから、もしサレイが嫌じゃなければ、守ってやってほしいんだ。
ああそうか、そういうことか。
すまないみんな、もう…駄目だな。母艦で自分を待つだろう戦友達に、サレイは心の中でそう詫びた。果たせなかった、使命。それは、きっと自分にしか…。
でも何故か後悔の念は沸かなかった。
ラクスイの言葉を実行できた、という気持ちのほうが大きかった。
体が崩れ落ちる感覚、腕がだらしなくぶらさがる、頬の触れた床は、意外に冷たかった。目を開ける、視界がぼんやりと霞み、輪郭をとっていく、下から見上げた、フウカの困惑の瞳。
「ばぁか。ぼさっと突っ立ってんじゃねえよ」
最期にフウカの口まねをして、ゆっくりと、サレイは目を閉じた。
それを見守るしかないフウカは、信じたくない光景から目を離すことができなかった。待てよ…待てって。なんでみんな、僕を置いて逝く?
心が冷めていって、熱い何かが、溢れて、頬を伝わって。書斎の壁は、入って左側が全面棚になっていて、ミャクイクはそこに手を伸ばした。並んだ書籍の背表紙に、人さし指を走らせていく。
「二百年も昔の…」
呟きながら、彼は一冊の本を引き出した。分厚いその本を両手で抱え器用にページを追っていく。ぱらぱらとめくる風が、軽く頬をなでた。
冷たい風がふわりと、部屋を巡った。
風に気付いてキエンが振り返り、ミャクイクが手に本を持ったまま、そちらを見やった。
入り口、扉が開いていて、そこに立っていたのはフウカだった。
目を真っ赤にした、フウカだった。
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