十三夜月 ――――張りつめた意識の奥に、放棄の声を訊く
油臭い手袋を脱いで、部屋の片隅に放った。
汗を拭う前に、織られた布を手にとる。どこにでもある、ありふれた生活用品のひとつであるその布で、手を拭いた。汚れは少し、落ちたけれど、匂いが消えることはない。
ミャクイクは書斎の長椅子に腰を下ろした。
巨艦ゲイルシップが砦の上空に現れてから、ちょうど一週間が立つ。その後あの機影を見ることはなかったが、なんとなく皆の頭から、あのシルエットが消えることはなかった。
影、失ってしまった一つの仲間の影。
「このままが続けばいい…」
それは以前、ミャクイクの口癖だった。しかし今は、別の言葉がそれに続く。
「しかしラクスイは、死んだ…」
止まることのない歯車が、廻りだしたかのよう。
二百年以上も昔、それは大陸の中央に位置していた。凄まじく巨大な奇蹟を起こす、一人の偉大な魔法使いが、召し使い達を大勢抱えて暮らしていた。
マーベラス・ルーク――驚異の城。この城につけられた名前である。
偉大な魔法使い、その彼の父もまた、偉大なる魔法使いだった。彼の一族は代々この城を受け継いできた。代を重ねるごとに少しずつ、城は頑強になっていった。それぞれの時代の主達が、様々な奇蹟を施していったゆえに。
最後の主は、シリョウという名を持っていた。
彼は歴代の魔法使いの中でも、最も多くの叡智と、最も優れた技術を持っていたが、一つだけ足りないものがあった。
それは深く波打つ感情だった。
何も感じることができずに、ただ虚無の心を見下ろすだけ。
自分の想いを支配することもできず、解放することもできなかった。
彼が奇蹟を行使することはごくまれで、それは大抵、城の護りを強化するために使われた。傷付いたものを癒すときにも使われた。
しかし彼自身のためだけに使われたことは、ただの一度もなかった。
召し使い達が、ささやきあう。
「あのようにお優しい方は、見たことがないのに」
「そうだろうか、この間なぞ、私はあの方の冷めた瞳に身震いしたぞ」
「同感だ。怖いと思うね、あのような笑わない顔は」
「けれど、いつだって我々のことを、考えてくれるじゃないか」
「それは自分のことをお忘れになっているからだろう」
彼らは声を小さくして、仕える主人の耳に入らないようにしていた。けれどシリョウの耳には、それらの全てが聞こえてきていた。
聞こえなかったとしても、シリョウは何も感じなかったに違いない。
不安、焦燥、疑念。そのような闇とは、出会ったことがなかった。一方で、安らぎや愛しさのような光とも、出会ったことはなかった。
長くを生きる魔法使いだからこそ、一日は短く思えた。短い毎日を数えきれないほど重ねて、シリョウは淡々と生きていた。
城の奥まった場所に、主以外の者が入れない部屋がある。
部屋の内側には一面に魔法陣が描かれていて、精神を集中させる役割を果たしていた。その部屋の中央に立ち、シリョウは知りうる古い言葉を唱える。それは代々受け継がれてきた言葉であったり、文献などの中で識った言葉だったりする。
「来れ、光を知らぬ子供達よ」
意味を完全に把握した上で唱えている言葉は、実際に行使できる言葉のうちのほんのわずかに過ぎない。だからシリョウは、自分の使う言葉の意味を知るために、日々、研究に明け暮れている。
そんなあるとき、決して若くはない、けれど目立ちの整った女性が一人、彼を訪ねてきた。聞けば、先代の従兄弟の娘であるという。
彼女が名前を明かすことはなかった、永遠に。
何故なら訪ねてきたその日、シリョウが彼女を永遠に眠らせてしまったためだった。彼は生まれてはじめて、自分の中の別の自分の声を聞いた気がした。
それは言う。
「せせらぎの歌う早春の風を、掴んでごらん、とても優しいから」
それは歌う。
「母なる大地よ、おお、恵みを我に与えん。我はこの享受を忘れえぬ」
それは踊る。
「廻れ、荒波、飛沫を飛ばし。巡れ、立ち風、鼻孔をくすぐり」
それは告げる。
最後にこう、付け加えて。
――今なら昔が蘇り、笑うこともできるだろう。
シリョウは女性を見た瞬間から、自分の中に沸き上がる何かを感じていた。それが何なのか、彼にはわからない。わかるはずもない。
初めて明確に覚えたのは不安。これから先に起こることへの恐怖。
だから彼は、その優れた言葉を紡いで、彼女を永遠に閉じ込めた。自分のその何かを、抑えるために。
…否、抑えることはできなかった。
膨らんだ不安は衰えを見せず、膨らみを増していく一方だった。初めての焦燥。初めての疑念。自分が信じられなくなる。それまで自分の誇ってきたもの全てを、否定されたような気がした。
「これは何だ」
呟くことが多くなった。頭を抱えることが多くなった。
窓際に座り眠ったまま、彼女の安らかな表情が、何かを訴えてくる。
自分の中に沸きいでてくるものは、…これは何だ。
自分の中の別の自分の声、それは答える。
「これは恋しさ。誰か他の人間を必要とする想い。これは愛おしさ…彼女を」
それは続ける。
「彼女を、そばから離したくないと想う気持ち」
シリョウはその瞬間、彼女のほおに手をやった。冷たい肌を感じて、改めて問う。――これは何だ。私が笑う、だと?
微笑みを浮かべた自分の姿を鏡で確認するまで、にわかにそれは信じがたい現実だった。
彼はそれから、彼女のために奇蹟を使い始めた。目覚めた彼女は、彼を必要とした。彼もまた然り。そうして、華やかな生活が始まる。城の外壁にはつるが伸びて、手入れを必要としていた。ひびの入ったレンガは、代用を必要とした。落雷にやられ屋根の抜けた見張り塔は、修復を必要とした。
けれど彼を必要としたのは、たった一人の人間。名も知らぬ女性。
召し使い達はそんな主に不安を抱きつつも以前と変わらずに従った。
城が荒れていくのにも、彼らは目を瞑った。
城の奥深く、主以外の入れぬ部屋に、彼は佇んでいた。最近とても頻繁に、この部屋を訪れるようになった、と自分でも気付いている。
床や壁や天井に描かれた魔法陣の中に立ち、彼は止まったままの心で誰ともなしに想った。
「私は誰かに必要とされている、それだけが救い」
けれど彼は、そろそろ自分の死期が近付いてきていることを、その持てる力によって知っていた。
おそらく自分がいなくなれば、彼女も生きてはいけないだろうと、悲しい現実もわかっていた。
今、彼が唱えようとしているのは。
全てを眠りにつかせる言葉。歴代の城主にその言葉を唱えたものはいなく、どのような事態になるのかまでは、予想もつかなかった。それでも彼はよかった、彼女とずっと一緒にいられるのであれば。
彼は、心を研ぎすますと、言葉を紡ぎ始めた。
それは、彼の把握していない、滅びを意味する言葉だった。マーベラス・ルーク――驚異の城。それがこの城につけられた名前。
今はただ、ルーク、とだけ呼ばれている。
主に捨てられて久しいが、今は別の者たちが暮らしている。古いが堅牢な、城壁に囲まれた立派な砦だ。
現在の住人達は、その城の前の主がどのようにしてこの城を捨てたのかまでは知らない。ただとても古く、貴重な遺跡であったから、他の悪しき者に破壊されたりしないよう、守るために住んでいる。
城の随所には、古代の文字と思しき紋様が刻まれていた。読むことはできない。この城に関する文献は、この城のどこにも見つからなかった。絶えて久しい言葉を、さしもの学者達にも解読できなかった。
もしも彼らがその文字に明るかったなら、こう、読めたことだろう。
――我が姿に影おちるその瞬間に。奇蹟が起こる。
彼の唱えた言葉が宙を舞い、魔法陣をつくる文字の並びが、輝きをともなって浮び上がった。目に見える形で、言葉が流れていく。
光の中に、彼は見た。
彼女の微笑みと、幸せそうに眠る自分の姿とを。
彼自身、意味の知らない、言葉が流れていく。
それは滅びを意味する言葉だった。
眠気が彼を襲った。
今までにない事態だった。魔法が完成しないうちに、意識が薄れていく。研ぎすまされた心に侵入した睡魔が広がっていく。
耐えきれずにまぶたが下がった。開けることができない。彼の意識が完全に途切れたとき、築き上げられなかった魔法が反動で崩れ始めた。
奇蹟が起こる。よくない奇蹟が。
城を囲む城壁の外側が、淡く輝きはじめる。
城全体が揺すぶられ、大地から切り離されていく。
否、大地がはがれ、落下していく。海に向かって地面が墜ちていく。
揺れがおさまったとき、あとに残されていたのは、切り岸に建てられたような姿になった、主のいない城だけ。
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