十日余の月 ――――ある朝の記憶、唐突に思い出す君の泣き顔
早夏の豊かな新緑が、山間を埋めつくしていた。高原特有の植物が、随所で白い花を咲かせ、存在を誇っていた。なだらかな丘陵を、逃げるように下っていくキエン、彼を追いかけて走っていくラクスイ、二人の姿がある。
空には高い場所に雲、決して白くはない雲が、空一面を覆っていた。厚みはそれほどでもないのだろう、陽が透けて、雲が白く輝いていた。
湿った地面に足をすくわれ、キエンが転んだ。笑いながらラクスイが近付いてきて、キエンの額に触れる。
「息が荒いぞ、もうダウンかよ」
「そんなことない、まだ走れるって」
「じゃあ、今度はお前が追え」
ラクスイが走り出す、キエンが彼を追い掛ける。
何かのきっかけで雨の降り出しそうな危うい雲を抱えて、風が冷たく駆け抜けていく。走ると風が頬をなで、くすぐったい。
気持ちの良い風が吹く。足下の背丈の低い草木が揺れる。
ラクスイを追いかけていく、キエンはまたも転び、その様子を見てラクスイは笑った。
「気をつけろよ、低空飛行してるわけじゃないんだから」
憮然とした表情をキエンは返して、立ち上がった。
ラクスイが手を伸ばしてくる。捕まえてみろ、というように。
その手を掴もうとして、掴み損ねて、キエンは諦めきれずに手を伸ばす。けれど伸ばした手は虚しく宙を握るだけで、ラクスイに届かない。
やっきになって追い掛ける。ラクスイが逃げていく。風が背を押し、駆ける速度があがる。それでも二人の差は縮まらず、離れていく一方。
ふと、立ち止まって、足下を見るキエン。
自分の両足から前にのびる影がある。その影の先に、怪訝そうに立ち止まったラクスイの姿がある。彼の影は…彼の足下にはない。
「どこへ捨ててきた?」
自分でも何を言ってるのかわからなかった。
「ラクスイ、君の影は、どこに置いてきたんだ?」
一歩踏み出す。すると足下の大地に自分の影が広がって、思いも寄らぬ速さで広がって、ラクスイの足下に影が届く。
「海の色って、なんだか落ち着くよ。とても自由な気分になれる」
そう言った彼の足下にさざ波が立ち、彼の回りに広がった自分の黒い影は、いつの間にか海面のように波打っていた。
「空を飛べたらよかったのにな。一度、飛んでみたかったんだ」
ラクスイが両手を広げて、目を閉じると、彼の足下の海面が一気に高度を下げて、遥か下のほうで波が立つのが見えた。
「お前はついてくるな。自由を望むのは、まだ先のことだろ」
後ろ向きに倒れるように、ラクスイの体が傾く。さっきまで地面だった場所は空中でしかなく、彼の体を支えることはできず、そのままラクスイは仰向けになって、頭から墜ちていく。
海へ向かって墜ちていく。
爆音と閃光が、キエンの耳と目の奥を通り過ぎた。
熱い雫が、海の水と同じ味のそれが、頬を伝った。
…これは夢だ。自分の中の別の誰かがそう告げる。
夢なんかじゃない。自分に自分で答えて、耳を塞いだ。
これは夢なんかじゃない、ラクスイは…っ!寝返りをうったオーシュには、キエンの背中が視界に入った。
さっきまで安らかに寝息を立てていたはずなのに、今はあまり聞こえてこない。
悪い夢でも見てるのではないか、と思ったが、状況を把握しようと考え、起こさずに見ていた。
「俺の知らない間にあいつは行ってしまったっ!」
突然、声を張り上げて、キエンが飛び起きた。
びっくりしたのはオーシュも同じで、どうした、と声をかける。
「ああ、俺は…。ごめん起こして。夢、を見てたんだ…」
ラクスイの。とは言わなくてもオーシュにはわかった。
「あいつのことは忘れろ。ひきずっていても仕方がない」
「なんでそんな事が言えるんだ、君は」
やや怒気をはらんだ声をあげて、キエンはオーシュを睨んだ。
自然と溢れた涙とは裏腹に、キエンは腹を立てていた。
何も、できなかった。
あのとき自分は空にいた。あいつは砦に残っていた。
そのとき自分は何をしていた? 何ができた?
…否、何もできなかった。
地の果てまで飛べても、友人のそばに行けないなんて。無力な自分が悔しかった。
夢の中で、自分は確かに泣いていた。海の水と同じ味を覚えている。
大声をあげたかった、でも出せなかった。心の中に浮かぶ氷塊。
微笑みの中に、かろうじて浮かべた悲しみ。
言葉を続けられなくて、ただ睨むことしかできなかった。
「前進の第一歩、それは過去の自分を越えること」
キエンのほおを伝う雫を見て、オーシュは静かに告げた。雨の音がしていた、心を静かにしていると聞こえてくるくらいの。
憤った心にしみ込むように、しとしとと降り続く雨。
心が安らいでいく。
その音に誰かの泣き声を重ねる。結局、キエンは泣かなかった。
>>> next page