三日月 ――――神を殺した人間は、混迷ののちに虚無を知る
海に面した切り岸の上に、古いが堅牢な砦が築かれていた。主に捨てられて久しいが、今は別の者たちが暮らしている。
四人の若い学者と一人の技師、一人の技師見習い。彼らはこの古い砦に興味を持ち、研究と保存のために自然と集まってきた仲間達だった。
キエンが地下の井戸から水を汲んで帰る途中、空を見上げると、一機のエアシップが目に止まった。大方、見回りに出ているソウフだろうと思い、さして気にもせずに厨房の扉を蹴って開けた。
扉が完全に開ききらないうちに中へ入っていく。流しのところで手を洗っているオーシュの、表情のない視線が冷たかった。
笑ってそれをやり過ごして、キエンは水をタンクの中に開けた。
飛沫が顔にかかる。ひやりとしていて気持ちいい。
空になった容器を放ると、オーシュがそれを受け止めて、代わりに織られた布を投げてよこした。
「有難う」
キエンは布で顔を拭き、オーシュはそれを見ていた。
「…っ」
キエンが何か言おうとした、そのとき。
隕石でも落ちたような凄まじい音がして、砦全体が揺すぶられたような振動が伝わってきた。
「なんだ?」
「さぁな。…隕石でも降ったか?」
オーシュも同じことを考えたようで、さすがに不安を覚えて二人、音のしたほうへ駆け出した。上の階、見張り台のほうへ。
非常事態を伝える警報音が鳴り響いてくる中を、走っていく。黒煙をあげて、翼の折れたエアシップが一機、落ちていく。
愛機を駆って戻ってきたソウフはそれを見つけ、見慣れない機体に向かってどなっていた。
「バーをひくんだっ。機首をあげなさいっ」
けれど応答はなく、どうしようもないまま見ているしかなかった。
もしかしたら、中に人間はいないかもしれない。機体だけが落ちているのかもしれない。そうは思ったものの、落ちて欲しくない大きな理由がソウフにはあった。
煙を軌跡のように残しながら、エアシップが落ちていく。
その先には、自分達の暮らす砦がある。昔むかしに造られた、石とレンガの城、そして櫓。堅牢だが、古い。エアシップが幾ら小型で軽いからと言って、あのまま墜落されたらただではすまないだろう。
ソウフは左手のレバーの、奥に隠されたボタンを押した。
ぽんっ、と弾けるような音がして、勢いよく発煙弾が飛び出す。それは目の前のエアシップを擦り抜け、砦のほうへ向かっていった。書斎で昼寝をしていたミャクイクは、二重ガラスのはめ込まれた窓にぶつかった、何かの音で目を覚ました。
覚めきらない頭のままで見やれば、窓の外には煙が二つ、遠くと近くとであがっていた。空からの黒煙と、おそらく今しがたあがったばかりであろう、オレンジ色の煙とが。
「非常事態?」
それが仲間の放った発煙弾だと気付き、色を確かめて起き上がった。部屋の入り口に備え付けられた、ベルを鳴らす。
直後、どおん、という振動が伝わってきて、思わず壁に手を寄せた。 警報音に駆け付けたらしいキエンとオーシュが、部屋に飛び込む。
「何事です?」
「わからん。だが、黒煙が見えた。落ちた場所はわかるか」
「行きましょう、見張り台のほうです」
部屋をつっきって、その奥にある階段を駆け上がる。
見晴しのよい屋外のその場所には、瓦礫の下に、壊れたエアシップが一機、埋まっていた。黒煙はそこから噴き上がっている。
舞うように空でゆっくりと旋回し見守っていたソウフが、自機を操って着地した。座席から這い出で、飛び出すように走って瓦礫に近付く。
「中にまだ人がいるかもしれない」
閉まったままのハッチを見て、彼がそう言った。
「手伝おう」
「頼みます」
オーシュとソウフは二人がかりで、ハッチをこじあけた。
中には人が座っていた。コントローラを握ったままの両手に、力はこもっていない。下を向いたままの姿勢で、座っていた。
今度はオーシュとキエンとで、彼を引きずり出す。
瞳は閉じられていた。ぐったりしていた。
二人は彼を背に負い、医務室へと運んでいく。
残されたソウフが、ミャクイクを振り返った。
「間に合えば…よかったのですが…」
「何も起こらなければ、それに越したことはないよ」
ミャクイクが何かを悟ったかのように、呟いた。医務室に運ばれた見知らぬ青年は、深い外傷を負っているわけではなく、ただ意識を失っているだけのようで、軽い寝息を立てていた。
三日目の昼、様子を見にきたキエンの前で、彼は目を覚ました。
しばらく視線を漂わせたあと、彼はキエンに気付いた。
「ここは…?」
「ここは古代の砦の中。君はエアシップに乗っていて、失速でもしたんだろうね、落ちてきたんだよ」
「…そうか」
「俺はキエン。昔のことに興味のある学者さ。君は?」
「自分は…サレイ」
彼はそれだけを言うと、疲れたように目を伏せた。
部屋を出て行く際、出口ですれ違ったオーシュにそっと、キエンは笑って、ささやくように言葉を紡いだ。
「バトンタッチ」
ああ、と答えたオーシュの声は、届かなかったようだけれども。
近付いてきた別の気配に気付いたのか、サレイと名乗った青年はオーシュを見上げた。
さっきとは違った、きっとした眼差しで告げる。
「すぐに出ていく。…自分の居場所はここにはないと」
それが? と言うような、冷ややかな視線を送り、オーシュは彼を見下ろした。込み上げる懐かしさを喉元で飲み込む。
「見えるはずもない、嘘と本当の境目など」
「ああ、そうだ。自分は何もかも捨ててしまった」
いっそ清々しいほどに冷めた台詞を、サレイは吐き捨てるように言うと、目を閉じたまま深く息を吐いた。
深く深く息を吐いた。
無くしたものを記憶の底に、全てを忘れてしまえるように。
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